原文:仏は賢護を見るや、全身より光を放ち、賢護を照らし流れた。賢護この時に至り、畏れなきを得て、仏を三匝し、仏足を頂礼し、仏に申し上げて言う。「唯願わくは世尊、哀愍して教授したまえ。我今まさに仏の御許に於いて清浄の信心を得、心に妙法を希い、問わんと欲する所あり。されど我れ久しく生死に処り、煩悩の苦しみに溺れ、乱れたる念入り乱れ、戒等の業に於いては作ることなき冥き資えあり。心に奇しく重んずるも、我今この愚惑・疑網の中に於いて、いかにして超出し、生死を度え得るかを知らず。世尊は一切智にして、普く一切を見たまい、仏の出現は甚だ難く、希有なるに遇うこと、如意宝珠の如く衆生に楽を施すが如し。仏は大なる如意宝にして、一切衆生は咸く仏に依るによりて大安楽を得。仏は大いなる父母なり、衆生の善本にして、仏という父母によりて正しき道を見ることを得る。唯願わくは哀愍して、疑いの闇を開き明かしたまえ」。
仏、賢護に告げて曰く、「汝に疑う所あれば、汝の意のままに問え。我まさに汝が為に分別して解説せん」と。爾の時、賢護、仏の聴許を蒙り、心を専らにして問いを請い、一つの面に住せり。
釈:仏の出世は実に甚だ稀なる難遇なり。仏は経中に我らに告げたまう、娑婆世界に於いては何れも長き時を経て一尊の仏の出世あることを。賢劫には一千尊の仏が出世し、釈迦仏は第四尊、第五尊の仏は弥勒仏なり。釈迦仏の出世と弥勒仏の出世との間は、経典に九十六億年と記載され、この両尊の仏の出現の時間差は最も短い方なり。多くの時は幾つもの大劫の内に一尊の仏も出世せず、甚だしきに至っては数十大劫の内にも一尊の仏も出世せざることあり。数十大劫とは如何なる長さか。地球の成住壊空一周期は一大劫なり、かくの如き長き時間は即ち一千六百八十万年(一小劫)なり、更に八十を乗じて始めて一大劫となる。数十大劫の内に一尊の仏も出世せざれば、この世間に生存する衆生の悩み苦しむべきこと如何ばかりか、生死に救いなき者は輪廻に期なきを出づ。かくの如き長き時も仏の出世なきは、まさに仏のこの世に出づることの稀なること、値い遇うことの難きを証す。
「衆生は仏に依って大安楽を得る。仏は大いなる父母なり」、これは表象より言えばなり。実際の理地より言えば、一切衆生は五蘊身内の如来仏に依ってこそ大安楽を得る。如来蔵は五蘊を出生する父母なり、衆生に一切の法をもたらす父母なり。五蘊身内の仏は三蔵十二部を、成仏の法を、解脱の法を衆生にもたらし、衆生はこれに依って修学すれば大安楽を得る。一切衆生は咸く自らの如来蔵に依ってこそ大楽を得る。如来蔵もまた衆生の父母なり、一切を衆生にもたらす。如来蔵は衆生の善本なり、如来蔵あればこそ衆生は善法を修行し得、衆生は仏という父母によりて修行の正しい道を見ることを得、正路に上れば解脱を得る希望あり。唯願わくは世尊、我らを哀愍し、我らの為に疑いの闇を開き明かし、無明の疑惑を除かしめたまわんことを。
仏は賢護に告げたまう:「汝に何か疑いあれば、おのおの意のままに問え。汝の問うところ、我ことごとく回答せん」と。実は仏は既に賢護の問わんとすることを知りたまい、故にこの如く言わしめたまうなり。賢護は仏の自らの問いを許したまうを知り、仏の側辺に立ち、専ら問いを発せんと欲せり。
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