信は証と等しからず、仏語を信ずることは仏語を証得することに等しからず。五蘊無我を信ずることは五蘊無我を証得することに等しからず、第八識が真我であると信ずることは第八識が真我であることを証得することに等しからず。もちろん信には段階の問題もあり、浅い段階は意識の信、深い段階は意根の信である。意根が信じたとしても証得とは等しからず、信と証得の隔たりは甚だ大きいこともあれば、極めて小さいこともあり、どのような者が信じるかによる。
声聞乗の者は仏語を信ずるが故に、真我不滅の第八識が存在することを知るが、心量の問題により実証することができず、一旦実証すれば即ち大乗見道の菩薩となる。声聞人は菩薩と等しからず、もし声聞人が無余涅槃に入らざる心を発せば、通教の菩薩とはなり得るが別教の菩薩ではなく、第八識を証得して初めて別教の菩薩となる。
声聞人が仏語を聴く時、即時に第八識が真我であることを知るが、更に詳細な内容は知り得ない。第八識に対する実際の観行がなく、五蘊と第八識の真実の関係が如何なるものかを知らず、第八識が如何にして五蘊の存在と作用を生じ維持するかを知らない。
声聞人が仏語を信じた後、禅定において五蘊十八界の無常苦空無我性を具体的に微細に観行し、最終的に五蘊十八界が確かに苦空無常無我であるとの結論を得る。これにより五蘊を我と認める我見を断除し、法眼清浄を得て、初歩的な解脱の機能を受用する。
声聞人は第八識を実際に観行したことがなく、観行する能力もないため、五蘊が即ち第八識であるか非第八識であるかを確実に結論づけることができない。大乗菩薩のみが第八識を証得して後、初めて五蘊十八界のこの我が生滅する仮我であり、確かに第八識ではないことを如実に観行し得る。これ以前は全て仏語を信じ、仏陀の説かれた如実を信ずるに過ぎない。
菩薩が無生法忍を証得し、具体的な道種智を得る時、漸く五蘊十八界が実際には第八識であり、第八識の一部分の功用であることを如実に観察し得る。現前に第八識が如何に具体的に識種子と四大種子を流注し、如何に業種子を流注して連続不断の五蘊十八界の功用を形成するかを観察し、これにより漸く一切法が皆第八識であることを証得する。衆生は一真法界に在り、一切法が皆第八識真如である。これ以前は全て相似の理解推論推測想像と仏語を信ずるに過ぎず、実証とは言い難い。
声聞は第八識を実際に観行せず、第八識を実証しないため、「五蘊と第八識は一ならず異ならず」との結論を出すことが不可能である。これは実証した大乗菩薩のみが得られる確固たる結論であり、声聞人がこの結論を確実に得れば、直ちに大乗実義菩薩となり別教の菩薩となる。
声聞人が観行参究により五蘊十八界が空であることを証得するが、この空は第八識の空性体性を指すものではない。声聞人にこの智慧はなく、壊滅散失する種の空、不究竟なる空を証得するのみである。大乗菩薩のみが五蘊が第八識の空性であることを証得し、五蘊全体を第八識の空性として観照し得る。これにより初地に入り唯識種智を得、観行の智慧は極めて深遠となり、禅定も極めて深遠となる。
第八識を実際に証得していない時は、現前に五蘊が果たして第八識であるか否かを観察できず、五蘊身中における第八識の運作を観察できないため、五蘊と第八識の異不異の関係を観察し得ない。想像したものは実証に等しからず、推理したものは実証に等しからず、仏語を信じて復唱するのは実証に等しからず。
もし論理推理推論等を以て実証と為すならば、命終の時非常に大きな問題が生じ、その時全てが平素の想像認識の如きものではないことに気付くであろう。その際如何に慌てても益あることなし。最も恐るべきは、従来学び認めた理を信じなくなれば、仏法を誹謗する心を生じ、悪道に向かうことである。仮に大乗菩薩たる者も、大乗を修学するを主とするが、大乗の法を証得せず、五蘊が究竟的に第八識と如何なる関係にあるか、五蘊が究竟的に如何にして第八識と異不異の関係にあるかを如実に観察できなければ、推理は実証に代わり得ない。然らずんば、多少の小才ある世間人も皆第八識を証得し、大乗菩薩となり得、三宝に帰依せず、戒定慧を修せず、仏の那些の前行法は全て無用となる。
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