衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月14日    金曜日     第6開示 合計1612開示

生死流転の業縁とは貪愛です

臨終の際に、もし貪りの念があれば、それが家族眷属への執着であれ、人間界の生活への執着であれ、財物や情愛への執着であれ、全て餓鬼道に生を受けることになります。もし臨終の一念が瞋りの念であれば、その対象が何であれ、程度が深刻な場合は地獄道に生を受ける可能性があります。

従って、全ての望みを臨終に託し、その時に念仏を称え、心を清浄に保てると考えるのは非常に頼りになりません。一体誰がそれを保証してくれるのでしょうか。臨終には何が起こるか分からず、自分がどのような心の状態にあるかも予測できません。もし平常時の心すら制御できないのであれば、臨終に四大が分解し業障が再び顕現した際、ほぼ百パーセントの確率で業縁に従って起動する心念のまま三悪道へ堕ち、三悪道に堕ちないことを保証することはできません。三悪道への転生を確実に避け得るのは、我見を断ち明心する努力を極めるか、あるいは『観無量寿経』の第三観「地観」の修行を成就する場合のみです。念仏によって往生時期を予知できたとしても確実ではなく、その際に念仏の心が専一でなく誠心が足りなければ、仏は迎えに来られません。

九十パーセント、いやそれ以上の仏教修行者は、臨終に三悪道へ生を受けており、その大多数は餓鬼道に堕ちています。なぜなら百パーセントの人間に貪心があり、貪欲を断ち切れていないからです。貪欲を断除した状態とは、我見を断った後に初禅定が生じ、禅定の中で貪欲と瞋恚を断じた場合に限られます。これ以外は全て貪欲の心を有しています。しかし初果と二果の聖者たる者には貪欲の心があっても、三つの束縛(三縛結)を断っているため、もはや餓鬼道に生を受けることはなく、欲界天あるいは人間界に生を受けて引き続き貪りながら、徐々に貪りを断っていくことになります。

六道輪廻とはこのように無情であり、情実を顧みません。真の修行による証得がなければ、命終すると業障に翻弄されるがまま流転し、貪りの念に従って生を受け、選択の余地はありません。なぜなら平常時に訓練がなく、訓練が成功していないからです。我見を断った者こそが、訓練を成就した者といえます。

しかし偽りの我見断ち・偽りの明心を自称する者は、依然として訓練未成就に属し、三縛結を断じておらず、依然として貪りの念に従って餓鬼道に生を受けることから逃れられません。

無数の仏教修行者が、未だ自覚せず、毎日のように飲食・衣服・住居に貪り、享楽を好み、いわゆる自由気ままを好み、華やかさを好み、安楽を好んでいます。これらの「好み」こそが煩悩の結び目(煩悩結縛)であり、自らを六道に縛り付ける病根(心病)であり、来世の業縁となるものです。人は一生で享楽すべきものは全て享楽しました。しかし来世はどうするのでしょうか。現在の享楽が重要なのか、それとも来世に三悪道の苦しみを受けないことが重要なのか。

また、高尚そうな修行法として「肉を食する時に肉を食すると思わない」と説くものがありますが、実際に肉を食しながらその想いを起こさない、つまり心の境地を転じ得た者は、済公和尚がその一人と言えるでしょう。他に何人それができましょうか。既然肉に興味がなくなったのなら、なぜわざわざ肉を食べなければならないのでしょうか。畜生が一匹でも多く死なずに済むようにする方が良くないでしょうか。臨終の際、肉の主(殺された動物)が債権を請求しに来た時、果たしてその債務を返済せずに済ませる能力があるでしょうか。

——生如法師の開示
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