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日常法話

2019年05月14日    火曜日     第1開示 合計1528開示

三十七道品成就以後こそ証悟できる

第五章  三十七道品が成就してこそ証悟できる

一、三十七道品の修行の次第は大体以下の通りである。最初の五根の中の信根から起修し、五根が増長してから五力が具足し、その後八正道に入って思惟修を発起し、七覚支を修習し、念覚支の中で四念処観を修習して善法味を得、四正勤を起こし、最後に結果として、勤苦に修習することを経て四神足の果楽を得て、心は自在解脱を得る。

三十七道品の一品一品において、意識だけでなく意根も精進に修習し熏習しなければならず、意根と意識が共同で修習して、每一道品を円満具足し、最後に四神足を成就する。意識は念力をもって意根を熏修し、意根の念力を具足させ、念力を成就させる。每一法は最初に意識が熏修して導き、意根が具足してから、はじめてこの法を実証できる。

意根が身心は実有ではないと証得してはじめて解脱を得ることができ、意識が身心は実有ではないと考えるだけでは、解脱を得ることはできない。考えることと証得することとの間の距離は、遠くも近くもあり、全く当人の修持の程度次第であり、修持がなければ、その差は多くの劫に及ぶこともある。

二、小乗の証果の鍵は七覚分の修持である。七覚分についてはすでに大略述べたが、修行の過程は四加行の過程でもある。暖・頂・忍・世第一法という四つの過程は、文字の理論を基礎として、さらに内心で加工を行う過程である。加工の過程において、内心には必ず次第に相応の変化が生じる。これは観行の法義が次第に内心の意根と相応し、意根が次第に領納領受していく過程であり、もちろんまず意識が先に領納領受して勝解を生じ、それから意根に伝えて、意根に領納領受させる。意根が領納領受した後は、身心は次第に転変し、七覚分が一つ一つ現れ、定覚分が現れてからこそ、大智慧をもって五陰身心の法相を捨て去り、さらに法を証して、世間第一の初果人となることができる。身心に変化がなく、転変がなく、七覚分が成就していなければ、我見を断して証果することは不可能である。

暖相とは、初步的な修学の段階で文字の理論を通じて、自ら思惟観行した後に、内心に暖相が現れることであり、火花を擦り出すように、心が思惟した正しい理論にいくらか同意し、修する法に対して初步的な認知と興味を持ち、さらにその内包を深く探求し続けたいと思うことである。

頂相とは、この段階で理論に対する認知が一定の程度に達し、一定の高さを有し、五陰身心の空と無我性を了解し理解して、五陰に対する認知の頂点に達することである。この時はまだ意識の認知と勝解の段階にあり、完全に意根に認知と勝解させてはいないので、内心にはまだ躁動があり、完全に五陰の空・無我という認知の上に認可し安住することができず、進むことも退くこともできる段階にある。

この段階では、ある人の内心には激しい反抗が生じ、思想が躁動して落ち着かず、情緒に起伏変化が生じる。ある人は万般に苦悩し、理由もなく苛立ちや情緒の沈滞が生じるかもしれない。この段階を過ぎて意根がいくらか適応すると、情緒は正常に戻り、次の段階に入る。意識が空に安忍するだけでなく、意根も安忍するようになる。すると引き続き深く究めて探求し、いったいなぜ五陰は空であって実在しないのかを追究する。

第三の段階は忍である。忍とはすなわち安住であり、空義の上に安住し、五陰の無常性を忍可するが、まだ真の証得ではない。なぜなら証拠がまだ十分でなく、内心の考量がまだ足りず、この理を真に確認することができず、ただ内心が躁動せず、比較的安分になっているだけである。また努力して証拠を探し、努力して現量に五陰身心の実質を観察する。この時、身心の覚受はますます軽安になり、ますます歓喜し、禅定はますます良くなり、智慧はますます深細で霊敏になり、空という念頭はますます堅固になるが、まだ捨に住することができず、内心には捨覚分がない。

捨覚分が成就するのを待って、内心の中の我という観念思想を捨て去り、内心は空空となり、五陰は空・無常という観念がすでに牢固に確立され、証拠がすでに十分で、内心が完全に五陰の空・無我を同意確認すると、第四の段階の世第一法が成就し、我見を断除して初果を証得する。

観行の過程において、身心は絶えず変化を起こさなければならない。なぜ変化を起こさなければならないのか。意識の勝解を通じて、意根が次第に一定の了知を有するようになり、従前の観念と相左し、従前の認知を次第に覆し、意根が新大陸を発見すると、身心に相応の変化と反応を生じさせるからである。だから我見を断し、五陰に無我であることを証得するのは、必ず意根が証得するのである。

我見を断した後に現れる覚明の現象、身心に現れるそれぞれの軽安歓喜の現象は、意根が促成したものであり、意根が身心の上で起こした反応である。意識は身心に反応させることができず、身心に軽安と歓喜の覚受を現れさせることはできない。だから我見を断するのは必ず意根が我見を断除したのであり、単に意識が我見を断しただけでなく、意識の我見はもちろんすでに早く断除されている。

もし軽安・歓喜・覚明の現象が現れなくても五陰は無我だと考えるなら、それは意識が我見を断したのであり、まだ意根の内心の奥深くまで深入していない。意根が最初にこの理を認知した時には、反抗や煩躁の現象が現れ、軽重の異なる現れ方がある。前世の根基が比較的良い人、五陰を観行したことのある人は、これらの煩躁の情緒がなく、反抗せず、直接に歓喜の心境が現れる。

実修とは何か。これが実修である。これらの段階と過程がなければ、真に我見を断したとは言えない。真に我見を断した後は、身心は必ず転変し、心行は必ず変わり、聖性は必ず現れ、内心は必ず空である。どうしてそれほど重い煩悩があり得ようか。どうしてそれほど多くの乱相が現れ得ようか。あり得ない。内心が空になれば、余計なことを造作しようとは思わなくなり、無為と初步的に相応する。それほど多くの乱事が起こるはずがなく、ましてそれほど多くの悪行が現れるなど、根本的に現れ得ない。

もし禅定が不足なら、観行は本当に骨が折れ、法義の吸収と理解が十分にできない。いくつかの深法や甚深法は、なおさら理解と信受ができず、それゆえ疑が生じ、疑見が断されなければ、内心は安穏ではない。

三、小乗において我見を断するには、三十七道品を必ず修了しなければならず、七覚分を具足し、八正道を具足しなければならない。喜覚分と倚覚分の現象が現れ、次に定覚分が現前しなければならない。これらはすべて禅定と切り離せないものであり、禅定の前奏と後続に属し、禅定の範囲に属する。

仏法を思惟する過程において、身心の軽安、内心の歓喜という現象が生じるべきであり、これは七覚分の修証内容の一つであり、仏法がすでに意根の心中に入り、意根から一定の程度の認可を得たことを示しているが、まだ完全ではない。四加行の暖相が現前したと言うこともできる。

いかなる法の証得も確かにすべて意根と関わり、すべて定と関わっている。七覚分の修証はこの事実を示しており、こうして意根と証悟修証の関係には仏経の根拠ができた。定慧と意根は須臾も切り離せず、意根が証得してはじめて真の智慧があり、意根に禅定があってこそ智慧が生じる。意識単独の知解には大智慧がなく、ただ学人の言語に過ぎず、知解宗徒と名づけられる。意根の修証における重要性については、七覚分がまさに良い証拠である。八正道にも八つの正が説かれているが、すべて意根を修するものである。正とは主に意根の思想観念を正して、その作主が決定する一切の身口意行為がすべて正行となるようにすることであり、意根が正されていなければ、八正道は成就しない。

受想行識はすべて空・無我であるが、では誰が受想行識しているのか。受想行識できるのは七識心であり、これもすべて空・無我である。受想行識を空と観察できる意識は空・無我であり、観察者は空であると知る意識は空・無我であり、一切法は空・無我であると了知する六七識心は空・無我である。心中に知・念・思想があれば、すべて空・無我である。観世音菩薩の耳根円通章では、一切法をすべて空にし、能空と所空の法をすべて空にし、最後に残る一つ、実在して空にできないもの、それが自心如来蔵であり、自心如来蔵にも住せず、修行は家に到ったということになる。

四、四聖諦・四正勤・四神足・五根・五力・七覚分・八正道という三十七道品のこれらの内容は、すべて見道の前後の修行過程であり、大乗と小乗は大同小異で、修行過程は相似している。これらの過程の熏習がなくて、突然一つの果が現れ、聖人となったなら、この果は非常に疑わしく、極めて信頼できない。果と結論は剽窃することができ、すべての知見は暗唱することができ、本を何冊か多く読めば暗唱し想像して出すことができる。

しかし、これらの過程は誰にも剽窃できない。これは見道して証果した人なら誰もが必ず経歴しなければならない過程であり、人それぞれの過程は前世の根基の違いによって、いくらかの差異があるかもしれない。前世ですでに証果した人は、今世これらの過程をすぐに通過し経験したかもしれないが、他の人はそうはいかず、一つ一つ実践し実証し、各関所をすべて通過しなければならず、大乗の果位も同様である。これらの過程をすべて経験すれば、その身心は転変でき、証果の時に解脱の功徳受用がある。これらの過程を経験していない人の得た果は、空中の花のようで、ただ鑑賞するだけで、実用価値がなく、解脱の功徳受用がない。

いわゆる実修とは、大乗と小乗の三十七道品の修行内容である。これらの具体的また具体的な修行内容を離れれば、実修ではなく、結論だけあって過程のない修行はすべて実修ではなく、理論だけ学んでも実修ではない。理論は幾地の菩薩の理論まで学べるが、たとえその理を理解していても、実際の証得とは無量劫一つ二つの時間の差がある。一二の無量劫後の理論を今学んで、自分がすでに掌握したと思い、自分が聖人になったと思い、前の道は歩く必要がなく、実際の修行過程は経験し実践する必要がないとすれば、そのような修行は夢幻泡影であり、ただ空花を得て、空果を結ぶだけである。

五、四聖諦の法、苦集滅道も内法塵と外法塵に分けられ、道諦を修する中の八正道も、内法と外法に分けられる。八正道を修了し、小乗の三十七道品を修了してはじめて、我見を断する条件が満たされ、その後にこそ証果できる。もし心行が八正道に符合しなければ、その心行は聖賢と為すに足らず、証果できない。八正道の中に正定があり、意識の外定法と意根の内定法に分けられる。だから意根は必ず定と相応し、意根に定が完備してはじめて、正智慧が生起し、我見を断し、初果を証得できる。さもなければ、すべては偽果・プラスチックの果であり、ただ観賞するだけで、実用がない。

六、大念住経は、仏が我々に観行の方法を教えた経である。観行のできない人は、仏が導く思路に沿って定の中で思惟すれば、それが観行であり、観行の最後には決定心があり、最後の結論が出てくる。この結論が仏が指し示してくれた事実と真理に符合すれば、それが証である。

正しい観行の過程において、心中には多くの変化が生じ、七覚分が一つ一つ現前し、内心の暖相が現れ、四加行の前三者が現れ、最後に無我・空を証得した時、それが世第一法であり、初果成就である。これらの現象が一つも現れていないのに、自分は我見を断し初果になったと言うなら、まさに自欺欺人である。九十九パーセントの人は、このように観行したことがなく、七覚分がすべて現れず、忍位も真に完成しておらず、最後の世間第一の初果人になることは不可能である。

仏法の修証には一定の厳格な基準があり、これらの基準は仏が経中ですべて説いた。三十七道品・七覚分・四加行・四念住など、すべて仏の説いた修行の基準である。ただ衆生自身が理解せず、弘法者も理解しなければ、世間は乱相紛々となり、街中が聖賢だらけなのに、烏煙瘴気で、世風は日々下る。

七、仏は大念住経で五蓋を説く時、内貪欲と外貪欲、内瞋恚と外瞋恚、内睡眠と外睡眠、内掉悔と外掉悔、内疑惑と外疑惑があると言った。内と外はそれぞれ何を指すのか。

心を内外に分けるなら、外心とは衆生が普遍的に発見し観察できる心意識を指し、内心とは衆生が発見し観察しにくい心意根を指す。二つの識心は一つが顕で一つが隠れ、一つが明で一つが暗、一つが深く一つが浅く、一つは変えやすく、一つは堅固で変えにくい。修行とは、まず浅い層次の意識に落とし込み、さらに深い層次の意根に落とし込み、まず初步的に意識を転変させ、最後に究竟に意根を転変させる。だからすべての煩悩無明のうち、最初で顕著なのは意識の層面であり、最後で隠秘深遠なのは意根の層面である。

この経から、仏が小乗の法を説く時、意根の法を明言してはいないが、それでも隠して意根に言及していることが分かる。隠して、一切の煩悩と無明はすべて意根のものであると説き、煩悩を断するとは意根の煩悩を断することであり、解脱とは意根の解脱であり、一切法を意根の上に落とし込み、意根の問題を解決すれば、一切法を解決でき、最終的に究竟に涅槃と解脱に達する。

八、仏は大念住経で観受を説く時、内受と外受の二種の受に言及した。外受とは観察しやすい意識心の受を指し、特に六塵境界の上の意識の受である。内受とは隠れていて比較的深く観察しにくい意根の受を指す。大多数の人は意識と意根を区別できないが、内心の奥深くの思想活動は感知し観察することができ、ただ心が非常に細緻であればよい。

仏が観心を説く時、心を観察するには内心と外心の貪瞋痴の煩悩を観察し、内心と外心の集中と散乱・広大と狭小・有上と無上・有定と無定・解脱と不解脱を観察する。これは内心の意根に貪瞋痴の煩悩があり、定と不定があり、解脱と不解脱があることを示している。これは小乗の経典から意根にこれらの心所法があることを証明しており、世尊が明言してはいないが。意根の法は大乗の弟子でも理解し証得できず、まして小乗の弟子が意根の法を深く正しく理解できるはずがないので、世尊はやむを得ず隠秘に意根の心所法を説いたのである。

疑惑の煩悩には内疑惑と外疑惑があり、疑を断するには究竟に断しなければならず、必ず意根の疑惑を断することである。だから三縛結は完全に意根の結を指し、意根の疑惑を断除してはじめて三縛結を断することになる。貪欲を断するには、意根の貪欲を断してはじめて、心が色界天人と相応し、色界天に生まれることができる。瞋恚を断するには、必ず意根の瞋恚を断除してはじめて三果人となる。愚痴を断するには、必ず意根の愚痴無明を断してはじめて、三界を出離できる。

小乗の仏経は最も理解しやすいが、しかし誰が真に小乗の仏経を読み解くことができるだろうか。まして大乗の経典では、誰が真に完全に読み解くことができるだろうか。阿羅漢果を証しても、完全に汝の意を信じてはならない。智慧が不足し、意が究竟でなければ、完全に信じれば誤りが生じやすい。

九、大念住経の中で、世尊が五取蘊を説く時、色受想行識の内法と外法にも言及した。内色は色身であり、外色は六塵であり、内受想行識は意根であり、外受想行識は意識である。

世尊が七覚分を説く時、七覚分も内七覚分と外七覚分に分けた。択法覚分・精進覚分・喜覚分・倚(軽安)覚分・定覚分・捨覚分は、すべて意識の外覚分と意根の内覚分に分けられる。内七覚分を修成していない時は、小乗の果を証得することはできず、我見を断することはできず、まして明心見性は言うまでもない。三十七道品を修成しなければ、大乗小乗の果は一つも語るなかれ。身心の軽安が成就しなければ定は成就せず、内心の捨受が存在しなければ、我見を断除できず、明心見性できない。これは仏法修証のハードな指標であり、誰も越えることはできない。強いて誰それが証果し明心したと言うなら、それはすべてプラスチックの果であり、見るだけでよく、腹を満たすことはできず、実質的価値がない。

十、七覚分の第一は念覚分であり、内念覚分は意根の念であり、外念覚分は意識の念である。意根に念覚分がない時は、念覚分が成就せず、択法覚分は現前できない。だから意根には必ず念心所があり、小乗の経典はすべて意根の念心所に言及している。まして大乗の経典は言うまでもない。ただ衆生は無明が重く、仏経を読み解けず、弁別できないだけである。

世尊の七覚分に対する記述から見ると、意根には択法覚分があり、精進覚分(真の精進)があり、喜覚分(意根は捨受だけではない)があり、軽安覚分があり、定覚分(定と相応)があり、捨覚分がある。その後、心行が八正道に符合してはじめて、小乗証果の条件が具足し、我見を断し、初果を証得できる。さもなければ、すべては偽果・プラスチックの果である。条件が具足せず、因縁が具足せず、強いて導けば、偽果を得るだけである。

七覚分の中に択法覚分があり、この地歩まで修めば、弁別能力が備わる。しかし自分の現在の水準をあまりに超えている時には、また抉択能力がなくなるので、引き続き修めばよい。択法覚分は絶えず増進させなければならず、円満具足に至り、一切法を直ちに正しく揀択して疑いがないようにする。

(未完待続)

——生如法師の開示
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