衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2019年05月04日    土曜日     第1開示 合計1489開示

意根は捨受に非ざることの証拠(一)

七つの識にはいずれも、それぞれ対応する境界に対する受があります。前五識も五塵の境界に対して受があり、この受は往々にして情緒を伴わない、比較的純粋な感受であり、色・声・香・味・触の境界を純粋に領受するものです。意識の受は最初は純粋な領受・領納ですが、了知した後には情緒を伴った受が生じ、喜怒哀楽がすべて表れ、心理活動が非常に多くて複雑になります。

意根にも受があります。六識が分別・了知した内容はすべて意根に伝えられ、意根は六識から伝わった詳細な情報を領受し、それ自身の感受を持ちます。また、意根は第八識に依拠して第八識が縁ずる一切の法の影像を見ることができ、一切の法を了別することができるため、意識には了知されない様々な受が存在します。たとえば、第八識に依拠して自分あるいは身内に事故が起こりそうだと了別すると、神様の心は焦り、恐れ、心配し、不安や驚愕に陥るなど、様々な苦受が生じます。そのため、六識を駆り立てて常軌を逸した不可解な行動をさせることがあり、意識も驚恐不安などの情緒を表しますが、なぜそうなるのかは分かりません。もし意根が近いうちに喜ばしいことが起こると了別すれば、内心は愉悦や嬉しさなどの楽受を持ち、意識は理由もなく嬉しくなり、楽受が現れます。

意根が六識の了別した状況に依拠して生じる受もあります。たとえば昼間のある出来事を、夜に落ち着いたときに意識がよく回想して分析すると、表面的なものとは違うことが分かり、意識は考えるほどに怒りが募ります。これは意根がそれを知って怒るのです。すると心臓が不快に感じられ、顔色はますます悪くなり、あるいは新たな決定を下したりします。

意根の受は単なる捨受 (upekṣā-vedanā) であって、苦楽の受はないと言う人がいます。しかし、もし意根に苦楽の受がなく捨受しかないのであれば、第八識のように一切の法を容認でき、一切の法に対して興味を示すことも避けることも拒絶することもなく、喜怒哀楽などの情緒的な行動を身心に起こさせることもなく、度を越した行動や情緒が現れることもなく、身心を淡々と、静かに、安定的に保っているはずです。

しかし現に見られるところでは、意根はそうではありません。特に煩悩を調伏していない、修養のない人は、いっそう深刻に情緒化しており、多くの場合、意識にはなぜそうなるのかさえ分かりません。林黛玉のように憂鬱な人、阿修羅のように荒々しい人は、意根に苦受がありそれを抑えきれない結果なのです。意根の習気があまりに大きいため、意識にはこれらの情緒の発生を制御することが難しく、これは意根が捨受ではないことを物語っています。苦受のゆえに意根には対応する煩悩があり、楽受のゆえにも対応する煩悩があるのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

煩悩心所法

次へ 次へ

金剛経唯識深義(一三八)

ページトップへ戻る