衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月15日    月曜日     第3開示 合計917開示

生まれつきできるのが意根の経験である

意根を変えるには、一度の重大な事故でも、意根を以前とは大きく異なるものに変えるのに十分かもしれません。信じないなら試してみてください。火遊びをして重度の火傷を負えば、今後二度と火遊びをしなくなることは保証できます。飛ばして運転していて側溝に落ちて骨折すれば、今後二度と飛ばして運転することはできなくなります。「一朝蛇に噲まれて十年井縄に怖じる」というのは、まさにこの意味です。

重大な出来事を経験すると、ある人々は後遺症を残すことがあります。たとえば、他人が類似のことを少しでも持ち出すと、意根は心理的にパニックになり、恐れおののき、震えだします。その他にもさまざまな情形があり、意根は二度とそれらの人や事に向き合いたくなくなります。虐待を一度受けた子どもは、骨身に刻んで心に深く残し、その人と二度と接触しようとしなくなり、その人の名前を聞くことも嫌がり、名前を聞いただけで心理的に驚き恐れ不安になります。

幼い子どもは、初めて熱いものに触れると自然に避け、寒いときに出会うと、自然に首をすくめ、全身を震わせます。これは意根が生まれつき寒さと熱さをわきまえているのであって、人に教えられる必要はありません。乳児も初めて叩かれれば、痛くて泣くことを知っており、痛みを知っています。これも誰かに教えられたわけではありません。乳児は生まれつき満腹と空腹を知っているので、空腹になると泣き騒ぎます。しかも泣き騒ぐこと自体も生まれつきのものであり、泣き騒ぎ方を誰かに教わったわけではありません。

乳児のあの痛覚について、誰も「これが痛みで、このときは泣くべきで、このように泣くべきだ」と教えるわけではありません。乳児が初めて両親に抱かれて撫でられたとき、心地よく感じましたが、抱かれるのが心地よいこと、撫でられるのが心地よいこと、これが心地よさであって、このように心地よさを表現すべきだと、誰も乳児に教えたわけではありません。これらはすべて誰にも教えられず、乳児は生まれつき身につけているのです。

須菩提は仏の弟子の中で解空第一であり、前世ですでに一切法空を証得していたので、母胎の中にいても空であることを知り、出生する時にも空であることを知り、家の感応にあるすべての財産がことごとく空になって消え、その後また財産がすべて出現しました。この空は、意根が証得したものです。

ある事柄は、六識と五陰が和合して働くことによって初めて表現できるのであり、五陰六識は新しく生まれたものですから、学習と適応が必要になります。そして人それぞれの学習の速さや遅さが異なるのは、意根の経験が異なることによって生じるのです。

意識は仏道を学び始めた最初の頃は、すべての人の意識が同様に何もわからないものですが、まもなく差異が現れてきます。一生かかっても一句の仏号にとどまり、経文を念じ読みする段階にとどまる人もいれば、一か月後には禅宗の典籍を探して学ぼうとし、一年後には参禅して悟道しようと望む人もいます。たとえば私自身がまさにそうでした。なぜこれほど大きな差異があるのでしょうか。意根の経験の違い、仏道を学んだ時間の長短の違いで、時間の差は無量劫を超えることさえあり、仏道を学ぶ上での差異が非常に大きくなるのです。

人それぞれの差異は、意根の差異によって生じるのです。認めようと認めまいと、これが事実です。事実は、あなたが認めるか否かなど関わってくるでしょうか。事実は誰が認めるか否かを意に介さず、永遠に変わりません。真理は、たとえ娑婆世界に一人としてそれを認める人がいなくても、永遠に真理であり続けます。他人が認めないからといって、真理でなくなるわけではありません。真の仏法は、誰が誹謗しようとも、仏法は仏法であり、真理は真理なのです。

——生如法師の開示
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