第七識の心所と働きは、妙観察智を具えていない者には観行(vipaśyanā-caryā)できません。どのような人がこの妙観察智を持っているのでしょうか。すでに転識成智を成し遂げた地上の菩薩だけが、この微妙な観察の智慧を持ち、意根の働きと心所法の運行を現量に観察することができるのです。大衆はみな観察できないので、第七識の五別境心所法はただ一つの微弱な了別の慧だけを持つ、と言うのです。それは、私たち一般の人が明心していないときには、意識の所縁に限量があり、第八識の働きを観察できず、そこで第八識の存在を否定して、第八識はただの仮の名前であって実体はなく、実有の心体ではない、と言うのと同じです。
意識は本来この観察の能力を備えているのですが、ただその能力が自分自身の無明によって遮蔽されているだけです。そして意根は本来、五別境の心所を備えているのですが、衆生の心地が染汚しているために、これらの心所法が自分自身の煩悩障によって遮蔽されてしまい、観察できないのです。私たちの第八識は本来、円満に一切法を照らしているのですが、ただ無明によって遮蔽されているために、その光明を観察できないのです。私たちと仏とは本来無別なのですが、ただ無明のために第八識の光明が遮蔽され、それを完全に徹底して顕発させることができないのです。
一切法は本来具足していて、後天に生まれたものではなく、後天に新たに学ぶ必要はなく、ただ染汚を取り除き、無明を取り除けば、一切の光明が顕現してきます。だから一切法には何も得るところがなく、自分が本来持っている家の宝は外から得たものではなく、家の中の宝蔵は他から得たものではなく、ただ善巧方便を用いて探し出し、掘り出すだけなのです。仏菩薩もまた、ただ自分の家の中の宝蔵を、善巧方便を用いて探し出し掘り出すことによって、大富貴を得、大自在を得たのです。
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