意識が思惟する内容はどの法に属するのか?どこから生まれたものなのか?意識が思惟する法は、如来蔵 (tathāgatagarbha) の中から来るものであり、まさに意根が攀縁して引き出したものであり、意根が決定することによって引き生じされたものである。それゆえ、意根が先に法を縁じ、意識が後に法を縁じるのである。法に対する勝解 (adhimokṣa) は、意識が先に勝解し、その後に意根に伝達され、意根が思量 (manasikāra/manana) した後には、意根もまた意識が勝解した法を勝解するのである。そして法を実証するには、必ず定 (じょう) の中で、意根が自ら思量し参究し、最終的にはっきりと証得し、智慧を獲得しなければならない。意識も同時に参与し、意根が親しく証する時に、意識は法の実証の全過程について思惟し、整理し、帰納などを行い、法の来龍去脈をも明らかにして、実証の智慧を獲得する。それゆえ、禅定の中で実証する時には、意根の慧心所法が先に生まれ、意識の慧心所法が後に生まれる。いくつかの法に対する真の知は、いずれも意根の慧心所法が先に現れ、意識の慧心所法が後に現れるのである。
もし人が禅定を持っていれば、意識は一念に定まり、一塵を観じることができ、このようにして意識と意根の慧力 (prajñā-bala) はどちらも非常に強くなることができる。もし意根が散乱して、法の上に定まることができなければ、その勝解力は弱く、智慧を生み出すことができず、正しく合理的な結論と決定を導き出すことができない。意根の想心所と思心所もまた、智慧が生まれる縁である。
意識が法塵に触れた後、五遍行と五別境の心所が働き始め、善悪の心所法も働く可能性がある。意識の思惟の全過程は、さまざまな心所法が働く過程であり、意根の思量の全過程もまた、すべての心所法の働く過程である。意識が思惟した内容は、意根による自らの再思量を経てこそ、最終的な結論を導き出すことができる。すべての結論は、必ず、かつ必然的に意根の決定でなければならない。意識が決定したものは、意根の審査・承認を経てこそ、初めて完全に安心し、後悔することがなくなる。もし意根が十分な思考を経ずに、やむなく意識の結論に同意したのであれば、意根には必ず疑いが心の中に潜み、後になって後悔する可能性がある。
<h2 style="text-indent: 2em;">意根には五別境の心所法がある</h2>六識に貪厭の心行があれば、六識に欲心所があることを示している。意根に貪厭の心行があれば、意根に欲心所があることを示している。意根には所縁の境に対する領納性があり、他の識 (神様) の了別の内容を了別することができ、さらに互いに配合し合うことができるということは、意根に勝解心所があってこそ智慧が生まれることを示している。勝解できなければ、智慧は不足し、正しく択択することができない。識心が法を念ずることができるということは、念心所があることを示している。意根が法の上に定まり、了別慧が生じることができるということは、定心所があることを示している。意根には分別の智慧があり、相応の理解力と択択力があるということは、慧心所があることを示している。
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