仏地の八つの識はすべて二十一心所法を有し、しかもいずれも無我性です。欲心所とは達成すべき目標が存在することであり、この目標は必ずしも有我性であるとは限らず、無我性の側面もあります。聖者の欲心所法は無我であり、私心私欲がなく、善欲であって、衆生のため、仏教のために種々の思いを生じさせ、いくつかの目標を実現しようとするものです。我性は見惑と思惑に現れ、無明に現れます。無明が断じ尽くされれば、第七識は徹底的に無我となります。
勝解心所法とは、対応する法に対して一種の理解、意解、明瞭な把握という意味です。明瞭に把握してこそ、初めて抉択と決定ができ、造作ができるのです。念心所法とは、心の中に思い(念想)があり、心思があることです。経験した法を念じるのであれ、知りたいと思う法を念じるのであれ、すべて念であり、参禅参究の念頭、法を思惟する念頭も含まれ、その後に初めて念想と心思を実現することができます。定心所法には、一つには法に対して決定心を持ち、その法に揺るぎなく堅定することという意味があり、もう一つは、ある法の上に定まって動かず、専心して了別し造作するという意味があります。慧心所とは、智慧的な造作、智慧的な了別、智慧的な抉択、智慧的な専注などであり、一切の識心の活動はすべて智慧的なのです。
<h2 style="text-indent: 2em;">心王と心所はそれぞれ運行の行相を有する</h2>心王の運行の行相は識種子の流注と運行に現れ、心所の運行の行相は法に対する了別、識別、造作の過程に現れます。例えば五遍行心所法と五別境心所法などです。また心行にも現れます。例えば善心所法、恶心所法、そして善でも悪でもない心所法などです。これらの心所法は識種子から持ち越されたものではなく、識種子と一体のものではなく、それぞれに運行の行相を有しますが、それらは完璧に融合し合い、天衣無縫のほどに協調し合うことができるのです。実は心王の運行の行相とは心所法の運行であり、両者は緊密に結びついており、分けることができません。
心所法の中で、五遍行心所法と五別境心所法の運行は、識種子の運行と流注とを区別しにくいものです。心所法は識種子の流注より観察しやすいものであり、識種子の流注を観察するには極めて深い禅定と唯識種智の智慧が必要です。心所法は絶えず変動しているものであり、増加や減少ができるだけでなく、さらに完全なものに変化することもできます。識種子の運行は時に集中し、時に分散し、識種子が数か所に分散すれば、心所法も数か所で運行します。したがって、心所法は識種子の流注に随って運行するのであり、単独では運行できないのです。
例えば五別境心所法の中の定心所では、心王が定まることができ、禅定が現れます。この定は強化できると同時に、減弱し消失することもできます。定心所は絶えず変化するものであり、識種子が集中するほど、定心所法は強くなります。これらの心所法は業種と一定の関係があり、前世の身口意行の種子と結びついています。それゆえ心所法には前世と後世の間に一定の連続性があります。例えば前世で禅定を修めた人は、今世で少し禅定を修めただけでも、定心所が現れやすいのです。
また例えば勝解心所、念心所、欲心所など、どの心所法も変異を生じます。心所法は固定したものではなく、増加も減少もでき、さらに変異を生じることもでき、これも業種・業力と関係がありますが、しかし単独の業種があるわけではありません。例えば慧心所は、間違いなく環境の薫習に随って絶えず増加または減少する、絶えず変異するものです。ところが心王の識種子は変異しないものであり、識種のそれ自体は永遠にそのように清浄 (viśuddha/pariśuddha) であり、ただ種子の流注に集中と分散の区別があるだけで、種子が集中している時は定力が良く、了別の勢力が大きく、了別の慧が深いのです。
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