眼識が色を見る時、見るのは顕色であり、青・黄・赤・白、光明・暗黒、雲・煙、靄、そして空である。光明は一種の物質であり、四大から成り、刹那に生滅変異し、虚妄であり真実ではない。
眼識自体には思心所が具わっており、色塵を受け入れた後、色塵を了知し、それから思心所を生起させ、造作を決定する。避けるのか、それとももう少し見続けるのかを。眼識は意根や意識と同時に密接に連携・協力する。意根の作意と思心所法が無ければ、眼識と意識の出生や了別は無く、眼識と意識の五遍行心所法の運行も無い。眼識が色を見る時、第七識は色を見ることができない。意識は分析・推理・判断するが、第七識は推理・分析できない。識には分別・了別・識別の性質があって初めて識と呼ばれる。そうでなければ識とは呼ばれない。七つの識は全て了別・分別・識別の性質を持つ。
意根に判断力はあるのか
智慧があれば判断力があり、思量があれば思量の結果がある。意根には必ず判断力があり、思量とはすなわち判断である。意根は作主識であり、五陰身全体の運行を主宰するため、判断力が無ければ五陰身の身口意の行いを主宰できず、それでは作主識とは成り得ない。では誰が作主するのか?意根の判断力は不可欠であり、ただ判断力の大小の問題、そして正確かどうかの問題に関わるだけである。
意根の判断には次のような違いがある。意根はどの法に対して判断力が大きく、どの法に対して判断力が小さいのか。いつ判断力が大きく正確であり、いつ判断力が小さくあまり正確ではないのか。どのような状況で六識の了別に依って判断し、どのような状況で六識の了別に依らずに判断できるのか。意根が明確に了別した法に対しては判断力が大きい。了別が明確であってこそ判断しやすく、迅速かつ正確に判断できるからである。もし意根の了別が明確でなければ、判断できないか、迅速かつ正確に判断できない。意根は理解できない法に対しては、ためらうか、判断を誤るかのどちらかであり、そうなると意根が下す決断は盲目的で誤ったものとなる。意根の選択が誤れば、六識の実行も誤ることになる。
しかし、私たちは観察してみることができる。世俗法において、衆生の選択は全て誤りで盲目的なのだろうか?明らかにそうではない。正しく誤りのない時も少なくなく、おそらく多くの場合は理にかなっている。これは意根に判断力があり、その判断力も決して小さくないことを示している。判断できない状況も存在し、ためらい決断できない状況も存在し、判断を誤る状況もさらに存在する。これは意根自身の智慧に関係し、意根の勝解力に関係する。
意根の判断は、一方では直接法に依って判断する。意根がより馴染みのある法、より多く経験した法ほど、単独で判断しやすく、より重大で危急な法に対しては、より単独で迅速に判断しやすく、その後で選択を行い、六識が生起してから造作する。もし意根が接触した境界を勝解できなければ、迅速かつ正確な判断を下すことはできない。他方、意根の了別は粗雑であり、細かく了別しようとすれば、六識の了別に依り、意識の思惟・分析・研究・判断に依り、そして六識から伝えられた情報に基づいて、自分自身で独自の思量と判断を行い、六識が生起して実行する。もし意根が六識の了別した内容を勝解できず、意識が思惟・分析・理解・判断した内容を勝解できなければ、判断や選択をすることもできず、あるいは判断や選択を誤り、六識がさらに誤って実行することになる。
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