衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2026年08月27日    木曜日     第1開示 合計4822開示

意識はいかにして問題を意根に任せて思量(manasikāra/manana)させるのか

意識が一つの問題を徹底的に考え抜き、問題の所在がおおよそ分かり、あとはどう解決するかだけが残っている段階になった時、この問題を意根に委ねて思量させることができる。最初はこの問題を移す方法に慣れておらず、技術がない時はこのようなプロセスになる。方法に熟達すれば、意根は直接深い思量モードに入ることができる。意識が問題の経緯をはっきりと把握した後、意根にこれは非常に重要であり、必ずはっきりさせなければならないと伝え、問題の要点を深く心に掛けて、意根に委ねる。意根は結果が出るまで絶えず思量し続ける。多くの場合、意識が思考していると同時に意根の思量があり、定力が良く、より心を込めるほど、意根の関与はより多く、より深くなる。そして意識が思考の結果を出せない時、意根は諦めず、単独で思量し、いつ結果が出るか分からない。

意根が思量する時、念(おもい)はあるのだろうか?

意根が恒に審しく思量する時、心の中に何か念はあるのだろうか?意根には想念する法(対象)があって初めて思量し審査する。先に念があり、後に思量・審査がある。念がなければ思量しない。もし意根の心が空っぽで、何も念じ想わなければ、思想活動はなく、何かを審査したり思量したりする必要もない。この時、意根は清浄である。しかし意根が降伏されていない時は、攀縁が比較的重く、心の中の念が非常に多い。そのため心の中で絶えず際限なく思量し、琢磨し、審査し、評判し、衡量する。昼に分からなければ、夜に引き続き審査し思量し、ひどい場合は真夜中に目が覚めて眠れなくなる。だから衆生の意根には恒審思量の性があると言われるのである。意根をすでに降伏した阿羅漢たちは、心の中にほとんど念がなく、あまり何かを考えない。意根はたまに思量するだけであり、常にではないので、「恒」とは呼べない。だから、意根が法を思量すれば、そこには念がある。思量する法がすなわち念であり、意根が念じるものである。

——生如法師の開示
前へ前へ

思心所法があることは法執があることを意味しない

次へ 次へ

意根の思心所法が眼識と意識の了別を決定する

ページトップへ戻る