前世のことは、神通がない場合、意識には分かりませんが、意根は知っています。特に重要なことであれば、意根は夢の中や定(じょう)の中で前世のことを現し、意識に警醒を与えて知らせます。独頭意識が夢の中や定境において了知することはすべて意根から来るものであり、それが五倶意識に転じられて言語・文字・音声で表現されるのです。つまり、意識が知る微細な法は、すべて意根が先に知り、それを意識に転じたものなのです。
ですから、すべてのことを知っているのは必ずまず意根であって、意識ではありません。とりわけ前世のことは、意識が経験したことがなければ知り得ません。すると、意識が了知する細部はすべて意根に由来するものであり、意根は法の細部を了別できるのです。神通を修得した後は、意識は前世と来世のことを了知できますが、それもやはりすべて意根から了知したものです。したがって神通とは、意識が意根という神と通じた境界なのです。意識はしばしば断滅するため、縁することができる法には限りがあり、祂(神様)が縁しなかった法はすべて意根から転じられて初めて了知できるのです。経験したことのないのに了知したものは、すべて意根が現したものであるか、あるいは意根から能動的に掘り起こされたものです。意識が経験したことを忘れていて、後になって思い出す場合、自分で思い出したように見えて、実は意根が意識にヒントを与えて知らせたからこそ、意識は思い出せるのです。細部の回想も含めて、意根は細部を了別でき、細かく分別できるのです。
たとえば旧知の人に出会ったとき、意根がまず思い出し、独頭意識を駆動して以前の関連する出来事を回想させ、さらには細部まで再現させることさえあります。再現された細部は、意根がかつて了別したことのあるものです。経験したことは、大まかな概要であれ細部であれ、意根はすべて知っており、意識が忘れていても、意根が縁に遇って回想を促しヒントを与えれば、意識は突然思い出すことができるのです。したがって、意識による前世と今世の出来事の回想には、意根の提示と暗示の働きがあり、回想される細部もすべて意根がかつて了別したことのあるものです。意識は自分だけで回想することはできず、必ず意根の提示に依拠するのです。
回想ということは、まず最初に意根の心の中に念頭と考えが現れ、過去の出来事を縁として、如来蔵に独頭意識を出生させ、ともに縁させます。すると独頭意識は意根に引かれ、ヒントを与えられながら過去を回想するのです。つまり、意根が指せば意識が打つのであり、意識は意根の指し示しから離れることができず、さもなければ出生できないのです。意識は必ず意根の指定した法の上に出生するのであり、単独で生起することはあり得ません。これが意識が出生する根本の条件と原因であり、必ず指令を完成させるため、意根に必要とされてこそ生起するのです。意根の指定した法の上に生起し、法塵と相触れ、さらに了別・分別・判断を行い、そして結論を導き出して、意根に用いられるのです。
これによって証明されるのは、意識は自在ではなく、生滅は常のことだということです。意根が法を処理する必要があって、意識は任務を完成させるために現れるのであり、その過程はこのようになっています。それならば、意根の機能と心所法は、一部の人が言うような、ごく微弱な慧が一つあるだけというものではありません。意根の慧が微弱であれば、衆生はみな慧が劣っていて、何もまともなことができなくなってしまうでしょう。意識による法の微細な了別は意根の指し示しによるものであり、これは意根が微細な法について思量(manasikāra/manana)し抉択していることを示しており、それによって意識は細部を回想するのです。
意根が心細やかなとき、意識は遠く及びません。経験が豊富で直観の強い人は、人の心理を細部から見抜き、明察秋毫であり、意識が理解できないことも意根は直接に感知し、そして静かに処理し対応します。意識はただ受動的に服従するだけで、その中のいきさつを知りません。智慧が深く細やかな人は、環境や情勢・趨勢に対する意根の感知と判断が、意識の思惟を超えており、意識は往々にしてこれについて経験がありませんが、意根は経験豊富で、心が髪のように細やかなのです。人の智慧の差はすべて意根の上にあります。三悪道の衆生は三善道の衆生に遠く及ばず、偶然人間の身を得た者は常に人道にいる者に遠く及ばず、経験の少ない者は経験の多い者に遠く及ばず、初心者は熟練者に遠く及ばず、まして宿世からの老手には及ばず、宿命として生まれつき備わっている者は天の驕子なのです。だから、意根は細かく了別できないなどと言ってはなりません。意根の心の細やかさは、意識にはまったくもって不可思議なほどなのです。
仏法において参究観行(vipaśyanā-caryā)が成就した人は、みな意根が日夜思量(manasikāra/manana)した結果であり、意識はその後、意根に依拠して知るのです。真の悟りは決して意識が先に参じて先に悟るものではなく、意根の参悟する心は極めて細密です。だからこそ、大衆の意根にはこの智慧がなく、凡庸にならざるを得ないのです。古唯識の師たちは唯識の種智を具えていないため、五蘊と法の具体的な運作の中で、意根と意識、および五識の活動を現量で観察することができず、いくつかの識について誤解が少なくなく、しかも小さくありません。意根についての結論は粗雑で独断的すぎると言えます。古唯識の師たちや現代の唯識学者が、もし衆生の身口意行の上から、いくつかの識の心の運作の状況を現量で観察し、六識の生起と滅亡を観察するならば、六識が何によって生じ、何によって滅するかを知り、六識が存在する条件は何かを知り、意根の機能・作用がいかに周密で細やかであるかを知るでしょう。そうすれば、意根をそれほど深刻に誤解することはなくなるのです。
古唯識の理論は確かに豊富で高大なものですが、現実から遊離していることも明らかであり、衆生の心理の問題や煩悩の問題に触れることができず、社会の各層面の根本問題にも触れることができず、衆生の当面の修行と多少の脱節があります。現今の仏法の修学と流布している唯識理論は、理論性が強く、実用性は大きくありません。正しいか否かはさておき、脱節の問題は確かに明らかです。学仏修行の根本は身心を修めることにあります。もし仏法の理論が身心に関する修行と転変に触れることができないならば、その理論は人を慰藉し、自己満足させ、麻痺させるための知識にすぎず、何の役にも立たないのです。
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