衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2026年08月10日    月曜日     第1開示 合計4804開示

意根の捨受 (upekṣā-vedanā)

捨受は苦楽の受を感じない受です。意根が捨受であると言うのも一部道理があります。意根は身触に対しては捨受であり、六塵の境界を直接感じることはありません。色身がどれほど痛みを感じていても、意根は痛みを感じません。痛みを感じるのは身識と意識です。身識と意識が無い時、色身は痛みを感じることはありません。例えば手術の時、身識と意識が存在すれば、人は清醒しており、必ず非常に痛みを感じます。痛覚を滅するために、麻酔を打ち、身識を先に滅させ、次に意識を滅させます。そうすれば、切開しても色身は痛みを感じません。歯痛の時、眠った後、六識が滅すれば痛みを感じませんが、歯の炎症はまだ存在しています。目が覚めると再び痛み、時には真夜中に痛みで目が覚めることもあります。なぜ真夜中に痛みで目が覚めるのでしょうか?意根が身体の痛みを覚知できるからです。昏睡している時は、身体はひどい状態でも痛みを感じませんが、目が覚めると耐え難い痛みを感じます。地獄で報いを受ける時、痛みで昏死して初めて痛みを感じなくなりますが、業力は罪人を昏死させません。業風が吹くと、再び清醒して報いを受け続けます。禅定の中では痛覚も軽減または消滅します。なぜなら、この時、六識は消滅するか、微弱になるからです。ですから、痛覚は身識と意識が共同で体験する覚受であり、意根にはそのような覚受はありません。たとえあったとしても、意識は知りません。衆生は皆、六識の覚受を覚受としています。六識が滅するか微弱になった時、意根がどのような覚受や心理であっても、意識は知りません。知らなければ、意根には感受がなく、心行もなく、あるいは意根は単純で、智慧が浅いと考えます。意根の機能作用が強くなり六識に取って代わった時、一切の覚受は意根のものとなります。しかし、この時、意根の禅定智慧の修行はすでに非常に優れており、ほとんどが捨受であり、感情の起伏はほとんどありません。一般の衆生の意根には依然として苦楽受があり、捨受だけではありません。意識に似た心理的覚受があり、悔しさ、抑圧、煩悶、恨み、喜び、楽しさ、興奮など、感情の起伏が非常に大きいです。だからこそ、怒りが天に届く、手舞足踏する、喜びが顔に現れるといった感情が現れるのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

意根に三種の受があることの証拠(五)

次へ 次へ

世俗法の無常は推動されて生じたものではない

ページトップへ戻る