衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年08月11日    火曜日     第1開示 合計4807開示

世俗法の無常は推動されて生じたものではない

何が一切法の無常を引き起こし、推し進めているのかと問う人がいる。世俗界における一切法の無常は、誰かが引き起こしたものでも、押し進められたものでもなく、法爾自然の現象であり事実である。なぜなら世俗法はいずれも自主性がなく自在でない法であり、生かされた法であって、生がある以上、当然滅もあり、生・住・異・滅という変動の過程を有し、生じて滅しないということはない。それゆえ世俗法は無常なのである。また、世俗法は様々な因縁によって生かされたものであり、因縁が変われば世俗法もそれに伴って変わる。それゆえ世俗法は変異的なのである。自主性がないというのは、自らを主宰できず、自らをコントロールできないということであり、自在でないというのは、自らの存在の有無を自ら決められず、自らの生と住を決められないということである。それゆえ変異があり、滅壊があるのである。自主性がなく自在でないことが、一切法が必ず無常であることを決定している。自主性があり自在であってこそ、永遠に長く存続することができる。一切法の無常性はいずれも外力によって引き起こされ、押し進められたものではなく、法それ自体の性質によって決定され、顕わされたものである。

無常とは世間の一切法に対する定義であり付加的な説明であって、定性を示し概括的に記述する用語であり、それは実在する一つの法ではなく、実の四大種子・七大種子によって組み合わされた実体ではなく、一種の仮法である。それゆえ、何が無常を引き起こしたのか、何が無常を押し進めているのかと問うてはならず、一切法はなぜ無常なのかと問うべきである。

一切法はなぜ無常なのか。それは、様々な因縁によって生かされた法であり、生があれば必ず滅があり、生と滅は異ならず、確定せず永遠ではなく、自ら自らを主宰できず、自ら自らをコントロールできず、自らでは主となれないからである。それゆえ無常なのである。無常を押し進めている法など何もないが、もしあると言うならば、それは衆生の意根に執念があり、絶えず取捨造作を行い、心が寂静でないため、一切法が絶えず生滅を繰り返し、変化して無常となるのである。

無常とは一切法の結果であって、因ではない。因とは、一切法を生じさせる不生不滅の真心如来蔵である。如来蔵が様々な因縁条件のもとで一切法を生じさせたからこそ、一切法は無常であり無我なのである。たとえば、私が大豆で豆腐を作るとすれば、豆腐という食品は無常であり、自主性もなく、自在性もない。豆腐は様々な因縁の和合によって生じ出されたものであり、以前はなく、今になって現れたものであり、現れた後、因縁が変異すれば、豆腐は変化する。カビが生えたり、風化して乾いたり、あるいは食べられたりする。それゆえ豆腐は無常であり、無我で主宰のないものである。同理として、如来蔵は様々な因縁を通じて一切法を作り出し、因縁が変われば法は必ず変わる。変わることのできる法こそが無常なのである。

——生如法師の開示
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