衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年08月09日    日曜日     第1開示 合計4803開示

意根に三種の受があることの証拠(五)

舎受の心は、一切の好悪の境界に対して心の住むところなく、心の執着するところなく、一切の境界に対して平等一如であり、欣喜もなく嫌悪もなく、貪りもなく瞋りもない。このような心こそ解脱の心、寂静の心、無為の心であり、第八識もこのようであって、心の住むところなく心の執着するところなく、瞋りもなく喜びもなく、平等一如であり、一切の境界に対して如如として動かず、完全に舎受である。もし意根が舎受であるならば、如来蔵と同じく一切の法に対して平等一如であり、一切の境界に対して如如として動かず、瞋りもなく喜びもなく、貪瞋痴もなく、寂静解脱である。そうであれば、衆生は改めて修行して解脱を求める必要がなくなる。それゆえに意根は単なる舎受ではなく、苦受・楽受もあると言うのである。意根は善悪の熏習を受け、善悪の業を造ることができる。それゆえに舎受ではないのである。衆生には種々の貪瞋の煩悩があることから、意根が舎受ではないことがわかる。第八識は決して一切の法に対して貪瞋を起こさない。これこそが舎受の心である。

瑜伽師地論第六十三巻には、意根に三受が具わることが説かれている:又諸転識。或于一時。一切唯与楽受相応。倶有而転。或于一時。亦有苦受。或于一時。亦有不苦不楽等受。相応倶転。阿頼耶識相応受。于一切時唯是不苦不楽。ここでは八識の受について説かれており、阿頼耶識のみが舎受であり、その他の諸転識にはすべて三受がある。諸転識とは七つの流転する識を指し、ここでは七転識は時に楽受と相応し、時に苦受と相応し、時に不苦不楽受と相応すると説かれている。

修行が深まるほど、情緒がなくなり、舎受と相応するようになる。七覚分の最後は舎覚分であり、心境は非常に平穏で、起伏がなく、どのような境界に遭遇しても平静であり、心は水のように静かである。ここには意識の舎受もあり、意根の舎受もある。もし意根が舎受でなければ、意識も舎受することはできない。意根が転識成智した後も、決して一切時において舎受であるわけではなく、情緒的になる時もある。ただ以前より情緒的になることが少なくなり、軽微になっただけである。阿羅漢は我執を断除し、貪瞋痴の煩悩を取り除いたため、心が平淡である時が非常に多いが、決して一切時において舎受であるわけではなく、苦受・楽受もある。意識は煩悩を断除し、転識成智した後は、舎受がますます多くなり、情緒的になることがますます少なくなり、苦受・楽受がますます少なくなる。どのように苦しくても、阿羅漢たちは一般的に苦しいとは感じず、どのように楽しくても、阿羅漢たちは楽しいとは感じない。貪愛がないからである。

しかし阿羅漢たちの意根にも依然として苦受・楽受がある。そうでなければ、彼らは娑婆世界の苦を避け、無余涅槃を選び、離苦得楽を選ぶことはないだろう。もし阿羅漢の意根が五陰の世間の苦を感じなければ、灰身泯智し、顧みずに涅槃に入り、苦を滅して清凉の楽を得ようとはしないだろう。小乗は苦集滅道の四聖諦を修める。意識が修め終わると、意根に熏習され、意根と共に苦集滅道を証得する。それゆえに意根も意識と同じく、苦を知り集を断じ、滅を慕い道を修めるのである。意根は最終的に苦を知り、集を断じ、修道によって自己を滅することを望む。ここからわかるように、意根は苦を知っているのである。意根は心に苦受があるからこそ、断固として集を断じることができるのである。

甚深の禅定があれば、思惟観行して仏法を観じることができ、その時に初めて事実の真相を観行することができ、真に法に依ることができるのであって、特定の権威や有名な人に依るのではない。禅定がなく観行思惟ができなければ、往々にして人に依らざるを得ず、法に依ることはできない。暗記して他人の言葉を述べることは、すべて人に依ることである。法に依るとは事実の真相に依ることであり、事実の真相は禅定の中で観行思惟して初めて現れるのであって、決して名言名句を暗記することではない。まるで再生装置のように。今日のネット上には再生装置のような人が溢れており、各自が得意げになり、自分は知識が豊富で、学識が深いと思い込んでいる。しかし、どれほど多くの知識を積んでも、生死とは全く関係がない。知識は生死を解脱させることができない。知識は生滅法だからである。

——生如法師の開示
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