衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2026年08月08日    土曜日     第1開示 合計4802開示

意根に三種の受があることの証拠(四)

意根には捨受だけでなく、苦楽受もあります。意根には無明と煩悩があり、善悪の心所法を有するので、必ず苦楽受があり、苦楽受によって貪と瞋の煩悩が生じるのです。もし意根が捨受しか持たないなら、人に殴られ罵られ辱められても一切動じることがなく、意識は心の中で不快に感じることはあるかもしれませんが、しばらくすれば過ぎ去り、報復のような行動を取ることはないでしょう。これは大修行人の優れた修養と品徳であり、一般の人には到底備わっていません。もし意根が捨受しか持たないなら、讃嘆されて天に捧げられるように持ち上げられても一切動じることなく、権力・色欲・名声・利益の前でも依然として動じることなく、権力・色欲・名声・利益を追い求めることなく、栄華富貴を淡泊に視るでしょう。意識がこれらを好むことはあるかもしれませんが、ほんの少し好むだけにすぎず、行動に移して何かを成すことはないでしょう。これは大修行人の徳行・修養であり、一般の人は決してこのようにはなりません。

意根が六塵の境界を領受するには多くの場合六識を借りる必要があり、六識は境界に対して明瞭に了別する機能・作用を持つので、受も明瞭かつ直接的であるのに対し、意根の受はいくらか間接的で、分かりにくく、意識に発見されやすいものではないため、意根には受がないと言われるのです。色身における受は、意識と身識が直接領受するものであり、色身の痛みと快適さは身識と意識が直接感じ取るもので、六識がないときには、色身の痛触や楽触を意識も身識も感じません。しかし、このとき意根に感じがあるかどうかでしょうか。意根には必ず感じがあります。だからこそ、昏倒した後や眠った後に、意根は六識を呼び起こして了別させ、色身の問題を処理する方法を考えるのです。たとえ六識を呼び起こして覚醒させることができなくても、昏倒や睡眠の中で、色身の顔の表情や身体の姿勢は、意根に覚受があることを物語っています。

衆生は皆、六識の受を受としており、意根の受を体得することができません。意識の智慧が不足して道種智がないときには、意根に受があることも観察できないため、多くの人が意根には受がないと言うのも不思議ではありませんが、これは正理ではありません。五遍行心所法とは作意・触・受・想・思であり、意根にも五遍行心所法があるのですから、意根には必ず受があるのです。


——生如法師の開示
前へ前へ

意根に三種の受があることの証拠(三)

次へ 次へ

意根に三種の受があることの証拠(五)

ページトップへ戻る