原文:须菩提。汝若作是念。如来不以具足相故。得阿耨多罗三藐三菩提。须菩提。莫作是念。如来不以具足相故。得阿耨多罗三藐三菩提。
解釈:須菩提よ、あなたもし心にこのような思いを抱き、如来はすべての相好を具足したがゆえにアヌッタラサミャクサンボダイを得たのではない、と考えるならば、速やかにその念头を消し去らねばならない。須菩提よ、そのような思いを抱いてはならない。如来は無量の相好荘厳を具足したがゆえにアヌッタラサミャクサンボダイを得たのではない、と考えることなかれ。須菩提よ、如来はまさに無量の相好荘厳を具足したがゆえにこそ、アヌッタラサミャクサンボダイを得たのである。
衆生は智慧が浅薄であるため、一切法を円融に理解することができず、その知見には偏狭や欠落が生じる。それゆえ衆生は、世尊が四相を破り、色声香味触法の相を破り、さらに如来の三十二相をも破されたのを見ると、ある人々は、如来がアヌッタラサミャクサンボダイを成就するのは、すべての相を具足しなくても菩提を得て仏道を成就できるかのように考え、それらの相はあってもなくても差し支えなく、取るに足らないものであり、相好を具足しなくても成仏できる、と考えたり、すべての功徳を円満しなくても成仏できる、と考えたり、あるいは成仏は相において成就するのではなく、相は重要ではなく、あってもなくてもよいものだと考えたり、成仏に一切の相は必要なく、五蘊の相も必要なく、三十二相も必要ない、仏には五蘊の身はなく、ただ一つの心だけである、と考えたりする。これらの思想観点はいずれも仏を謗るものであり、断滅空 (uccheda-śūnyatā) の思想に類するものであって、自分と他人に禍を及ぼし、修行しても成就を得ることはない。如来はこれらの邪見 (mithyā-dṛṣṭi) に対して正して与えねばならず、そうしてはじめて衆生の知見を偏りなく支え、正真の道を歩ませることができるのである。
なぜ、如来はすべての相好を具足しなくてもアヌッタラサミャクサンボダイを成就できると考えることが断滅空 (uccheda-śūnyatā) の思想なのか。このような思想観念を持つと、実相心である如来蔵 (tathāgatagarbha) の存在と働きを軽視あるいは否定することになり、如来蔵の機能・作用の実有を否定することこそが断滅論だからである。すべての菩薩は因地で菩薩道を行じたとき、修行した一つ一つの善業がことごとく種子として如来蔵の中に存在し、因縁が具足すれば、大小さまざまな善業の果報を次第に得て、成仏の果報に至っても尽きることなく、しかも果報はますます殊勝になっていく。これらの果報には、菩薩の色身・五蘊の相の荘厳と相好が含まれ、菩薩が生存する環境、住する仏国土が含まれ、菩薩の座下のすべての弟子と親眷が含まれ、菩薩のすべての三昧 (samādhi) と無量の神通が含まれる。最も重要なのは、菩薩の無辺の智慧と徳能、さらに菩薩の如来蔵の中の業種の清浄 (viśuddha/pariśuddha) 化と転変が含まれることである。
菩薩が成仏するとき、業種はすでに徹底的に転変して清浄無余となり、無明は断じ尽くされて無余である。それゆえ八識は四智に転換することができ、四智が円明となるとき、一切種智 (sarvākārajñatā) が現前する。そして仏の四智とは、仏の八つの識である。仏には八つの識があるからこそ五蘊があり、さもなければ八つの識には依り所がない。そして仏の五蘊が三十二相八十種好を具足しているのは、仏が三大阿僧祇劫にわたって善法を修行し、その善業の種子がすべて如来蔵の中に存在し、縁が熟して成仏するとき、種子が現前して、五蘊の相貌が極めて荘厳で相好に満ちたものとなり、三十二相八十種好を円満に具足し、比類なく、殊勝この上ないものとなったからである。
もし仏が成仏したとき、具足した相好荘厳によってアヌッタラサミャクサンボダイを成就したのではないとするなら、そこには極めて大きな過患がある。第一に、衆生は仏には無量劫にわたって修行した善業の種子が具足していないと誤認することになる。しかし実際には、仏は無量劫の修行の過程において、すべての善業を円満に修得し、種子はことごとく仏の如来蔵の中に収められており、成仏するときには最も殊勝な相好荘厳を感得するのである。第二に、衆生は、成仏しても相好荘厳を感得していないのは、仏の如来蔵が善業の種子を収めていなかったからかもしれない、と誤解することになる。しかし実際には、如来蔵が存在するかぎり、法爾如是に善業の種子を収め、一糸たりとも漏らすことはない。
第三に、衆生は、仏にも衆生にも如来蔵はなく、如来蔵はただ方便の説にすぎない、と誤解し、それゆえ仏の修行の過程におけるすべての善業の種子は収められておらず、したがって仏が成仏したときには相好荘厳を具足していない、と考えることになる。以上の過失に基づき、私たちは、仏は相好を具足したがゆえにアヌッタラサミャクサンボダイを成就したのだ、と言うべきである。
もし仏が成仏したとき、善業の種子の果報を感得しておらず、善業の種子がないとするなら、それは仏にはそもそも如来蔵がないのと同じことである。これは最も根本的で、最も深刻な邪説・邪見であり、根本的な断滅論の思想であって、人を害すること甚だしいから、速やかにこの邪見を滅除すべきである。如来蔵が真実に存在し、真実の機能・作用を有し、仏と菩薩が無量劫にわたって修行した善業の種子を収めることができ、将来成仏するとき、これらの善業の種子がことごとく現前し、仏は相好荘厳という殊勝な果報を得て、アヌッタラサミャクサンボダイを成就するのだと、確信すべきである。もし如来蔵がなければ、善業の種子は収められることができず、成仏するときに善業の種子も現前することができず、仏は相好を具足することができず、それではまだ仏ではなく、アヌッタラサミャクサンボダイを得て成ったことにはならない。
ここに至って皆は理解すべきである。もし仏が仏道を成就したとき、三十二相を具足したがゆえにアヌッタラサミャクサンボダイを得て成ったのではないとするなら、それは如来蔵の実有を否定する断滅論であり、無量の大過失がある。それゆえ世尊は、須菩提を勧導するという形で、間接的にすべての衆生を勧導し、断滅論の思想を持ってはならず、仏がアヌッタラサミャクサンボダイを得て成ったのは、相を具足したがゆえに得て成ったのではない、と考えてはならない、と説かれたのである。仏は相を具足したがゆえにアヌッタラサミャクサンボダイを得て成ったのだ、と言うべきであり、これこそが仏説に合い、仏法の精髄に契合し、大乗の実相法に背かないのである。
原文:须菩提。汝若作是念。发阿耨多罗三藐三菩提心者。说诸法断灭。莫作是念。何以故。发阿耨多罗三藐三菩提心者。于法不说断灭相。
解釈:須菩提よ、あなたもし心にこのような考えを持ち、すでにアヌッタラサミャクサンボダイの心を発した人は、一切法はすべて断滅空 (uccheda-śūnyatā) であり、もともと何ものも存在せず、成仏のときにも一切法はなく、一切法の相を具足していない、と説くのだ、と考えるならば、速やかにこのような考えを滅除し、このような思想観念を持ってはならない。なぜこのような思想観念を持つべきでないのか。アヌッタラサミャクサンボダイの心を発した人は、断滅しない実相心を信受したがゆえにこそ成仏の心を発起することができたのであって、その人は一切法はすべて断滅であるとは、もはや言わないからである。
真に発心して成仏を志す人は、このときすでに信位菩薩の条件が満たされており、すべての衆生がそれぞれ不生不滅の真実心である如来蔵 (tathāgatagarbha) を有していることを、すでに確信して疑わなくなっている。その人は、十方の諸仏がみな真実心である如来蔵を有し、この如来蔵に依って修行してはじめてアヌッタラサミャクサンボダイを成就できると信じている。自分にも真実心である如来蔵の存在があり、将来も如来蔵を証悟でき、諸仏と同じように成仏できると信じ、十方世界の衆生もまた不生不滅の金剛心 (vajra-citta) である如来蔵を有するがゆえに、みな成仏できると信じている。このような信心を生起させたので、十信位が満足し、十住位に入って六度の菩薩行の修行を始めるのである。もし自身に如来蔵があることを信じず、如来蔵が真実に存在することを信じないならば、その人の仏に対する、法に対する、三宝に対する信心はまだ満足しておらず、十信位の修行はまだ具足していないので、真に成仏の道心を発起することができない。
十信位が満足していない人は、まだ如来蔵が真実に存在することを信じることができず、往々にして如来蔵はただの仮の名詞、一つの概念にすぎないと考える。彼らは、如来蔵の空とは如来蔵が存在しないことと等しく、如来蔵という概念は諸仏の方便の仮説である、と考える。彼らは仏の所説の義を正しく理解できないため、仏の説かれた究竟了義の法を、ことごとく仏の方便説・方便法と誤解している。彼らはただ、それを仏が衆生を弄んでいるのだとは公には言わないだけであり、普通の人はそんなことは公言する勇気もないが、実質はまさにその意味である。このような考えは仏を謗り、法を謗るものであり、仏のすべての了義究竟の説法を、仏の不了義の、究竟でない法として、仏の真実の義を甚だしく曲解している。衆生が仏や法を謗る悪業が普遍的に存在することは不思議ではなく、すべて衆生の歴劫の修行の時間が短すぎ、福德が不足していることによるものである。
如来蔵の真実の存在、真実有を否定するかぎり、それは断滅空 (uccheda-śūnyatā) の言論であり、危害は極めて大きい。如来蔵がなければ、一切法は生起する由がなく、ことごとく断滅し、一了百了となる。断滅論を執持する人は、往々にして、一切法は縁起性空であり、すべて因縁所生であり、すべて空であり、一法として真実のものはない、と言う。では、すべてが空であり、真実の如来蔵の法は存在しないのであれば、一切法はいったい何によって有るのか。空で何ものもない法が、別の空で何ものもない法を生み出せるなどとは言えない。そのような道理はない。亀の毛が空無の法であるように、それは兎の角のような空無の法を生むことはできず、いずれも実体がないからである。実体があり自性のある法だけが、実体がなく自性のない法を生み出すことができる。実体がなく自性のない法は、他の法を生み出すことができない。これは法爾如是の道理であって、説明のしようがない。
もし一切法がすべて縁起性空であり、如来蔵という実体の法の存在がなければ、衆生の五蘊の世間は滅して再び生起せず、後世の出生もなくなるので、まして修行して成仏することなどできない。万歩譲って、たとえ後世の五蘊の出生があるとしても、如来蔵が衆生の業種を貯蔵しないのであれば、衆生が修行した善業は功が唐捐され、種子は集蔵されない。善業の種子が集蔵されなければ、修行は無用であり、後世の善業の果報を生じさせることもできず、まして成仏のときのより円満な善業の果報を感得することもできず、仏の三十二相・八十種好もなく、仏の種々の殊勝な功徳と利楽もなく、仏の十方の諸仏国土もなく、仏の荘厳な報身もなく、仏の無量の応化身もなく、仏の無量の神通・道力もなく、識を智に転じるという説もなく、まして仏の一切種智 (sarvākārajñatā) などあるはずがない。
なぜ、実体としての如来蔵の存在がなければ、識を智に転じることはできないと言うのか。七識が一世の修行において、心行を染汚から清浄 (viśuddha/pariśuddha) に転変させても、清浄化した業種が収められなければ、来世には依然として染汚のままであり、それはいたずらに修行しただけで真実の受用がなく、七識の染汚性には転変が生じていないことになる。那么、仏地に至ってもなお染汚の七識であり、七識の業種に転変がなく、心行が清浄化していなければ、成仏することはできない。それゆえ、実体としての如来蔵が真実に存在し、それに応じた功徳の作用を起こさなければ、衆生はアヌッタラサミャクサンボダイを成就することができない。したがって、真にアヌッタラサミャクサンボダイの心を発した人は、法について断滅相を説かず、如来蔵はただ仮設された虚相の法にすぎないとは言わず、如来蔵という心体の真実の存在がないとは言わないのである。
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