衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2026年06月05日    金曜日     第1開示 合計4733開示

金剛経講解・化無所化分第二十五

原文:须菩提。于意云何。汝等勿谓如来作是念。我当度众生。须菩提。莫作是念。何以故。实无有众生。如来度者。若有众生。如来度者。如来即有。我人众生寿者。

解釈:世尊は須菩提に言われた。須菩提よ、如来が衆生を度するということについて、あなたはどう思うのか。如来が一心に「私は衆生を度すべきである」と念じ、考えていると思うか。あなたがたはそのような観念を持ってはならない、如来には衆生を度すという念いがあると考えることのないように。須菩提よ、あなたがたは心の中でそのように考えてはならない、如来が念念に衆生を度すことを考えていると言ってはならない。なぜそのように考えてはならないのか。実際の理地においては、如来が度すべき衆生は実は存在しないからである。もし如来が本当に度すべき衆生があると考えるならば、如来の心の中には我相・人相・衆生相・寿者相があることになる。これらの相があるならば、如来はもはや如来とは言えない。

法身如来は、相なく、念なく、念ずるところがなく、神様は決して衆生を念じることはなく、衆生を度することもなく、衆生とは何であるかを知ることもなく、心の中に思いを起こすこともない。それゆえ法身仏は衆生を念じず、衆生を度することもない。なぜか。法身仏は道具を持たず、眼耳鼻舌身意がなく、眼がなければ衆生の相を見ることができず、耳がなければ衆生の音を聞くことができず、身がなければ衆生と向き合うことができず、口がなければ衆生のために法を説くことができず、意がなければ衆生を縁じて念じることができないからである。それゆえ、衆生を度するということにおいて、法身仏は無力なのである。

しかし報身仏と応化身仏が衆生を度しようとするときには、実のところ法身仏の助けがどうしても必要である。法身仏が仏国土を現し、場所や環境を現し、衆生の相を現し、仏法を現し、衆生を度するためのすべての道具と資糧を準備しておく必要がある。すべての一切の法を、法身仏が布施 (dāna)してこそ、報身仏・応身仏・化身仏は衆生を度することができるのであり、一つでも欠ければ衆生を度することはできない。このことから見れば、度生の事業は因縁所生の法であり、真仏と仮仏が共に協力して初めて完成できるものであり、決して簡単なことではない。

応化身仏が衆生を度するには、法身仏が衆生の相を変現し出さなければ度化できないとすれば、これらの衆生は実在するのだろうか。もちろんそうではない。世尊は「実無有衆生如来度者」と言われた。この言葉には一定の道理がある。実無衆生とは、実は衆生が存在しないということであり、仏が度する衆生は法身仏が変現したものであり、法身がまず現れ出てこそ、応化身仏が度化できるからである。

では、法身仏は衆生を応化身の面前に現すのか、それとも応化身の心の中に現すのか。もちろん応化身仏の心の中に現すのである。衆生は仏の心の中の衆生であり、仏もまた衆生の心の中の仏であり、心外に法はない。心外に法がないがゆえに、面前はすなわち心の中であり、心の中はすなわち面前であり、いずれも幻化された仮相であり、縁に依って生じ、縁が散ずれば滅する。そして衆生自身の本来の五陰 (pañca-skandha)の身も、また自分自身の如来蔵 (tathāgatagarbha)が、さまざまな業縁に依って化現したものであり、実有ではなく、縁が滅すれば散じる。

それゆえ、如来の心の中には、度化すべき衆生は存在しない。如来が無量また無量の幻化の衆生を度化したとしても、実は度すべき真実の衆生は存在せず、心の中の衆生はすべて影像であり、如来は一つの衆生をも度化したことがないのである。もし如来の心の中に「私は衆生を度す」という念いがあるならば、如来は衆生を実有とみなし、衆生の幻化の五陰の相を実有とみなすことになり、そのような如来は真の如来とは呼べず、真の菩薩でもなく、ただ凡夫の知見にすぎない。

そして真の如来の心の中には我相がなく、一切の法の中で主宰をなさず、五蘊の色身の相もなく、六塵を覚知する心の相もない。それゆえ人間の色相もなく、衆生相もなく、同様に寿者相もない。如来は無始無終であり、断滅したこともなく、終止したこともなく、神様の寿命は無限に長く続くものであるから、如来には四相がない。そして報身仏と応化身仏の心の中にも四相はなく、内心はすでに徹底的にいかなる法相もなく、空浄にして極めて空浄であり、一切の法を捨ててこそ、究竟円満の仏を成就したのである。

原文:须菩提。如来说有我者。即非有我。而凡夫之人以为有我。须菩提。凡夫者。如来说即非凡夫。

解釈:須菩提よ、如来の説かれる「有我」とは、本当に我があるのではない。しかし凡夫たちは皆、我があると思い込み、この我の五陰の活動がこのように真実であると思い込んでいる。須菩提よ、いわゆる凡夫の衆生についても、如来の説かれるところによれば、真実の凡夫の衆生があるのではなく、ただ仮に凡夫と名づけるだけである。

それぞれの仏が衆生のために法を説かれるとき、時には口で「私はどうこうである」と語って物事を叙述されるが、実はこれは諸仏の方便の説法である。「我」という字を言わなければ、衆生は世尊が何を言っているのか分からず、世尊の説かれる内容を正しく理解することもできない。それゆえ諸仏が口で「我」と言うのは、衆生と交流する便宜のため、教化する便宜のためであり、衆生が自分の説く内容をよく理解できるようにするためである。諸仏は口で「我」と言いながらも、内心は完全無欠の無我であり、自分の五蘊を我とみなすこともなく、自分の無垢識 (amala-vijñāna)と仏性を執著することもない。それゆえ諸仏如来は、すべて徹底的に無我なのである。

凡夫の衆生は心の中に皆、我があると思い、私は真実であると考えている。彼らは一般的に、色身の私は真実であり、身体の五官・骨格・筋肉・皮膚・内臓など、身体の各部分には真実の機能と利用価値があり、これが我である、あるいは我のものであると考え、そこから貪恋と執著を生じさせ、他人の侵犯を許さない。凡夫の衆生は、色身の上に生じる見色・聞声・嗅香・嘗味・覚触・知法という六識の機能作用は真実であり、これが我である、あるいは我のものであると考え、そこから貪恋と執著を生じさせ、軽視することを許さない。

凡夫は、色身の上に生じる六識のさまざまな覚受は真実であり、これが我である、あるいは我のものであると考える。そこでしっかりと執取し、感官のさまざまな覚受の刺激を追求し、一旦違縁に出会うと、内心は非常に苦痛と瞋恨に満ちる。凡夫たちは、色身の上に生じるさまざまな了知性、思惟・分析・判断・推理の機能作用は、我であり、我のものであると考える。そこで貪恋と執著を生じさせ、時を問わず自分の心念を休めることを肯んじず、常に一切の法を感知しようとする。

凡夫たちは、色身の上に生じるさまざまな触覚は真実であり、これが我である、あるいは我のものであると考え、そこでさまざまな触塵を貪執し、快適で自在に生きることを重んじ、享受を重んじ、いかなる代償も惜しまない。凡夫たちは、色身の上に生じるさまざまな行為造作は真実であり、これが我である、あるいは我のものであると考える。そこで絶えず奔走し労し、あらゆる事業を営み、絶えず身口意行を造作し、休むことを肯んじない。

凡夫の衆生は無始劫以来、このように錯誤し誤解し、このように絶えず執取 (upādāna)し、六道において辛苦して奔走し、疲れを知らない。まことに憐れむべき者である。如来は衆生の愚痴と苦痛を憐れみ、世に出て衆生のために説かれた。五陰の一切の法は本来我ではなく、我のものでもない。五陰は縁に依って生じ、生滅変異し、作用はあるものの、幻化であって実ではない。例えば、砂土と水を合わせて泥とし、泥で五陰の色身を捏ね、呪力を泥の身に作用させると、泥人はさまざまな行為造作を行うようになる。愚痴な凡夫はこの道理を知らず、泥人の仮相を執取し、泥人が人ではないことを知らない。智者はすなわちこれを知り、泥人の仮相を取らず、ただ泥と泥の用を認めるのである。

世尊はまた言われた。五陰を我と執取する凡夫も、また真実に存在する凡夫ではなく、幻化として存在する五陰の相であり、その本質は空である。ただ言語による交流のために仮名を取って凡夫と呼ぶのであり、その本質もまたその人の如来蔵 (tathāgatagarbha)である。金で器を作れば、器器みな金であり、泥で人を捏ねれば、人人みな泥である。如来蔵は一切の法を幻化し、一切の法はみな如来蔵であり、一真法界と名づけ、傍に他の物はない。もし人が一切の法を実有と見るならば、病んだ眼と名づけ、もし人が一切を真如と見るならば、慧眼・法眼・仏眼と名づけ、いずれも大智慧の眼である。

凡夫の衆生は五陰を我、我のものと考える。この我とは誰を指すのか。この我は第七識の意根を指す。第七識は何もかもを我と我のものとみなし、貪得無厭である。実際には、第七識は錯誤し誤解しているのであり、神様はこれらがみな自分自身ではなく、自分自身の機能作用ではないことを知らない。その中で最も主要なのは第八識の機能作用であり、その中にはさらに六識の機能作用もある。そして六識の機能作用は、実質的には第八識の機能作用でもある。明心開悟以後、第七識の意根は目覚めて悟り、これらはみな我ではないと知るようになり、入地以後には、いくつかの法に対して手を放し始め、五陰世間を執取し抓取しなくなる。


——生如法師の開示
前へ前へ

金剛経講解.福智無比分第二十四

次へ 次へ

金剛経講解.法身非相分第二十六

ページトップへ戻る