原文:須菩提。于意云何。汝等勿謂如来作是念。我当度衆生。須菩提。莫作是念。何以故。実無有衆生。如来度者。若有衆生。如来度者。如来即有。我人衆生寿者。
解釈:世尊は須菩提に言われた。須菩提よ、如来が衆生を度すことについて、あなたはどのように思うか。如来が「私は衆生を度そう」と一心に念じ、考えていると思うか。あなたがたはそのような考えを持ってはならない。如来に衆生を度そうという念があると思ってはならない。須菩提よ、あなたがたは心の中でそう思ってはならず、如来が常に衆生を度そうと念じていると言ってはならない。なぜあなたがたにそう考えさせないのか。なぜなら、実際の理の境地においては、確かに如来が度すべき衆生というものは存在しないからである。もし如来が本当に度すべき衆生がいると考えるならば、如来の心には我相、人相、衆生相、寿者相が生じる。これらの相があれば、如来はもはや如来とは言えなくなる。
法身如来は、相がなく、念がなく、念ずるものもない。決して衆生を念じることもなく、衆生を度すこともなく、衆生とは何かも知らず、心の中に念想を起こすこともない。ゆえに法身仏は衆生を念じず、衆生を度すこともない。なぜか。法身仏には道具がなく、眼耳鼻舌身意がなく、眼がないゆえに衆生の相を見ず、耳がないゆえに衆生の音を聞かず、身がないゆえに衆生と向き合わず、口がないゆえに衆生のために説法できず、意がないゆえに衆生を縁念しないからである。したがって、衆生を度すということは、法身仏には為し得ないのである。
しかし、報身仏と応化身仏が衆生を度すときには、実に法身仏の助けが不可欠である。法身仏が仏国土を現し、場所や環境を現し、衆生の相を現し、仏法を現し、衆生を度すためのすべての道具や資糧を準備しなければならない。すべての法を、法身仏が施し出さなければならず、そうして初めて報身仏や応身仏、化身仏が衆生を度すことができるのであり、一つでも欠ければ衆生を度すことはできない。このことから見れば、衆生を度すという事業は、因縁によって生じる法であり、真の仏と仮の仏が共同で協力して初めて成し遂げられるものであり、決して簡単なことではない。
応化身仏が衆生を度すためには、法身仏が衆生の相を変現しなければならず、そうして初めて度化できるのである。では、これらの衆生は実在するのであろうか。もちろんそうではない。世尊は「実に衆生なく、如来の度する者あり」と言われた。この言葉には一定の道理がある。「実に衆生なし」とは、確かに衆生がいないということである。なぜなら、仏が度す衆生は、法身仏が変現したものであり、法身がまず現れ出でて初めて、応化身仏が度化できるからである。
では、法身仏は衆生を応化身の前に現すのか、それとも応化身の心の中に現すのか。もちろん応化身仏の心の中に現すのである。衆生は仏の心の中の衆生であり、仏もまた衆生の心の中の仏であり、心の外に法はない。心の外に法がないがゆえに、面前はすなわち心の中であり、心の中はすなわち面前であり、いずれも幻化して生じた仮の相であり、縁に依って起こり、縁が散じれば滅する。そして、衆生自身の本来の五蘊の身も、自己の如来蔵が様々な業縁に依って化現したものであり、実有ではなく、縁が滅すれば散じるのである。
ゆえに、如来の心の中には、度すべき衆生は存在しない。如来は無量無数の幻化の衆生を度したとはいえ、確かに実在の衆生を度したわけではない。心の中の衆生はすべて影像であり、如来は一人の衆生も度したことがないのである。もし如来の心の中に「私は衆生を度そう」という念があれば、如来は衆生を実有と見なし、衆生の幻化した五陰の相を実有と見なすことになり、そうであれば如来は真の如来とは呼べず、真の菩薩でもなく、ただ凡夫の知見に過ぎない。
そして真の如来は、心の中に我相がなく、一切の法の中で主宰することもなく、五蘊の色身の相もなく、六塵を覚知する心の相もない。したがって、人間の色相もなく、衆生相もなく、同様に寿者相もない。なぜなら、如来には始まりも終わりもなく、断滅したことがなく、終止したこともなく、その寿命は無限に長いからであり、ゆえに如来には四相がない。そして報身仏や応化身仏の心の中にも四相はなく、心はすでに徹底的にいかなる法相もなく、空浄極まりなく空浄であり、一切の法を捨て去って、初めて究竟円満の仏を成就したのである。
原文:須菩提。如来说有我者。即非有我。而凡夫之人以为有我。須菩提。凡夫者。如来说即非凡夫。
解釈:須菩提よ、如来が「我あり」と言うのは、実際に我があるという意味ではなく、凡夫たちは我があると思い込み、この我の五陰の活動がこれほど真実であると思っている。須菩提よ、いわゆる凡夫の衆生とは、如来が言うには、実在の凡夫の衆生がいるわけではなく、仮に凡夫と名づけているに過ぎないのである。
それぞれの仏が衆生のために説法する時、時に口では「私がどのように」などと言って事柄を述べることがある。これは実は諸仏の方便の説法であり、「私」という言葉を使わなければ、衆生は世尊が何を言っているのか分からず、世尊の説く内容を正しく理解することもできない。ゆえに諸仏が口で「私」と言うのは、衆生との交流を容易にし、教化を容易にし、衆生が説かれた内容をよく理解できるようにするためである。諸仏は口では「私」と言っても、心は完全に無我であり、決して自分の五蘊を我とせず、自分の無垢識や仏性にも執着しない。ゆえに諸仏如来は、すべて徹底的に無我なのである。
凡夫の衆生は心の中で皆、我があると考え、我は真実であると思っている。彼らは広く、色身の我は真実であり、身体の五官、骨格、筋肉、皮膚、内臓、身体の各構成部分には、すべて真実の機能利用があり、これが我であるか、あるいは我の所有するものであると考え、そのために貪りや執着を生じ、他者の侵犯を許さない。凡夫の衆生は、色身に生じる見色、聞声、嗅香、嘗味、覚触、知法の六識の機能作用は真実であり、それが我であるか、あるいは我の所有するものであると考え、そのために貪りや執着を生じ、軽視することを許さない。
凡夫は、色身に生じる六識の様々な覚受は真実であり、それが我であるか、あるいは我の所有するものであると考える。そこでしっかりと捉え、感官の様々な覚受の刺激を追求し、一度逆縁に遭えば、心は非常に苦しみ、怒りを生じる。凡夫たちは、色身に生じる様々な了知性、思考・分析・判断・推理の機能作用は、我であり、我の所有するものであると考える。そこでまた貪りや執着を生じ、決して自分の心念を休めようとせず、常に一切の法を知覚しようとする。
凡夫たちは、色身に生じる様々な触覚は真実であり、それが我であるか、あるいは我の所有するものであると考える。そこで様々な触塵に貪り執着し、快適で自由気ままに生きることを重んじ、享受を重んじ、いかなる代価を払うことも厭わない。凡夫たちは、色身に生じる様々な行為や造作は真実であり、それが我であるか、あるいは我の所有するものであると考える。そこで絶えず奔走し労苦し、一切の事業を築き上げ、身口意の行を絶えず造作し、休もうとしない。
凡夫の衆生は無始劫以来、このように誤り、誤解し、このように執着し続け、六道の中で辛苦奔走し、疲れを知らない。まことに哀れむべき者である。如来は衆生の愚かさと苦しみを哀れみ、世に現れて衆生のために説き明かす。五陰の一切の法は本来、我ではなく、我の所有するものでもない。五陰は縁に依って起こり、生滅変異し、作用はあるが、幻化して実ではない。例えば、砂と土と水を混ぜて泥とし、その泥で五陰の色身を捏ね、呪力が泥の身に作用すると、泥人は様々な行為造作をする。愚かな凡夫はこの理を知らず、泥人の仮の相に執着し、泥人が人ではないことを知らない。智者は知っており、泥人の仮の相を取らず、ただ泥と、泥を用いることを認める。
世尊はまた言われた。五陰を我と執取する凡夫も、実在の凡夫ではなく、幻化してある五陰の相であり、その本質は空である。ただ言語交流のために、仮の名を取って凡夫と呼ぶのであり、その本質もまたその人の如来蔵である。金で器を作れば、すべての器は金であり、泥で人を捏ねれば、すべての人は泥である。如来蔵は一切の法を幻化し、一切の法は如来蔵であり、一真法界と名づけ、他に物はない。もし人が一切の法を実有と見るなら、病眼と名づけ、もし人がすべてを真如と見るなら、慧眼、法眼、仏眼と名づけ、いずれも大智慧の眼である。
凡夫の衆生は、五陰が我であり、我の所有するものであると考える。この「我」とは誰を指すのか。この「我」とは第七識の意根を指し、第七識は何もかもを我や我の所有するものと思い込み、貪りに限りがない。実際には、第七識は誤り、誤解しているのであり、これらが自分自身ではなく、自分自身の機能作用ではないことを知らない。その中で最も主要なのは第八識の機能作用であり、その中には六識の機能作用も含まれる。そして六識の機能作用の実質も、第八識の機能作用である。明心開悟した後、第七識の意根は目覚め、これらは我ではないと知るようになり、入地した後には、一部の法に対して手放し始め、五陰の世間を執取し捉えることをやめる。
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