実際のところ、真実の道理は、内相分は外相分に依って存在し、先に外相分があり、その後で内相分が生じるというものです。もし外相分がなければ、内相分も存在しません。したがって、人が物品を破壊する時には、内相分を破壊するだけでなく、必ず外相分も破壊しており、しかも外相分が先に破壊され、内相分がそれに続いて破壊されるのです。その物品の外相分は確かに破壊されたか、消滅してしまい、他人は利用できなくなるか、もはや見ることができなくなります。つまり、外相分が無くなったということです。
だからこそ、物を破壊することには罪があり、物を盗むことには罪があり、人を殺すことには罪があると言われるのです。まさに外相分を破壊することで、他人に損害を与え、もはや利用できなくなるからであり、単に自分の内相分に関わるだけではないからです。もし破壊されるのが単に自分の内相分だけであるならば、たとえ数億人を殺しても罪はなく、誰もとがめることはできません。したがって、人を殺すこと、木を伐採すること、財物を破壊すること、物を盗むことは、すべて外相分の本質に関わることであり、それゆえに罪過となるのです。
六識は内相分にしか接触できず、外相分には接触できないのに、なぜ六識の行為や造作が外相分の変化に関わることができるのでしょうか。ここに大きな秘密があります。外相分とは、外面的な四大によって構成される相対的に真実な物質世界であり、この真実性も内相分に対して言われるもので、実は真実ではなく、これも如来蔵が幻のように現じたものであり、その実質は依然として虚妄です。真実の法は、第八識である如来蔵のみであり、それ以外の一切の法は、すべて虚妄です。
「煩悩即菩提」という説があります。煩悩とは、一方では貪・瞋・痴、人を殺すことや放火などの悪法を指し、他方では飲食や排泄などの日常的な瑣事を指します。そして菩提とは如来蔵のことを指し、一切の法は如来蔵によって変現され、執持されています。外相分も同様であり、外相分の生・住・異・滅はすべて如来蔵によって実現され、内相分ももちろん如来蔵によって変現され、執持されています。山河大地の一切の変化は、すべて第八識である如来蔵のなすところであり、一切の法の生・住・異・滅はすべて第八識である如来蔵のなすところです。六識は永遠に直接外相分を変えることはできません。なぜなら、六識には種子がなく、外相分と相応せず、しかも六識は後から生じる法であり、必ず先に内相分がなければ六識は生じえないからです。したがって、六識が直接外相分を変えることは不可能です。一方、如来蔵には四大の種子があり、六大の種子があるため、一切の法は如来蔵が決定します。これらの問題を参究する方向性はすでに明らかです。
六識は内相分にしか接触できず、外相分には接触できないのに、なぜ六識の行為や造作が外相分の変化に関わることができるのでしょうか。ここに大きな秘密があります。私が手で机から本を一冊取り上げる時、手が接触できるのは本の内相分のみであり、取り上げているのは内相分の本です。しかし、外相分の本は机の上にはなくなり、他人は見ることも、手に取ることもできなくなります。内相分と外相分は一体どのように関連しているのでしょうか。先にあるのは内相分でしょうか、それとも外相分でしょうか。もちろん先にあるのは外相分です。先に変化するのは外相分でしょうか、それとも内相分でしょうか。もちろん先に変化するのは外相分です。内相分はどこから来るのでしょうか。もちろん第八識である如来蔵が外相分に基づいて変現したものです。
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