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日常法話

2026年06月01日    月曜日     第1開示 合計4729開示

金剛経講解.非説所説分第二十一

原文:须菩提。汝勿谓如来作是念。我当有所说法。莫作是念。何以故。若人言如来有所说法。即为谤佛。不能解我所说故。须菩提。说法者无法可说。是名说法。

解釈:須菩提よ、あなたは如来がこのような念を持っていると言ってはならない。如来は衆生のために法を説き、広く衆生を利益するであろうと。このような念を持ってはならない。なぜか。もし人が如来は法を説いたと言うなら、それはすなわち仏を謗ることであり、その人は私の説いたところを真に理解していないからである。須菩提よ、法を説く者には説くべき法がなく、それを仮に法を説くと名付けるのである。

如来は大慈大悲であるのに、なぜ世尊は須菩提が、如来には法を説いて衆生を度する念があると考えることを許さないのでしょうか。如来にはなぜ法を説いて衆生を度する念がないのでしょうか。如来は三身の如来に分けられるので、三身の如来を分けて説き、三身の如来それぞれの徳能と功用を正しく理解すれば、如来に法を説いて衆生を度する念がない理由がわかります。三身の如来とは、法身如来、報身如来、応身と化身の如来です。そのうち法身如来は、真如心体と理体である無垢識 (amala-vijñāna) であり、神様は形も相もなく、五蘊の身相を持たず、三十二相もありませんが、万法を含蔵しています。一方、報身如来と応化身如来は、いずれも五蘊の身相を持ち、三十二相がありますが、これらの身相はすべて法身如来から変化して現れたものです。

では、如来が法を説こうとするなら、五蘊の身を利用して法を説かなければならず、五蘊の身がなければ法を説くことができません。五蘊の身と七識心があってこそ、法を説く念が生じるのであり、五蘊の身と七識心がなければ、法を説きたいという念は生じません。法身如来は五蘊の身を持たないのですから、神様は法を説くことができません。法を説く道具がないからです。もし人が法身如来も法を説いた、しかも三蔵十二部経を説いたと言うなら、それは仏を謗ることになります。真如心体には口も舌もなく、法塵にも対応しないのですから、どのように法を説くというのでしょうか。真如が法を説けないのに、如来が法を説いたと言うなら、それは真如の体性を誤解するものであり、世尊を謗ることになります。その人は世尊の説かれた真如の体性をありのままに理解しておらず、仏の説かれた法義を解していないのです。

三身の如来のうち、法身如来は法を説きません。五蘊という道具がないからです。報身如来だけが日々絶えず法を説いて地上の菩薩を度し、応化身如来は十方世界でしばしば法を説いて、愚凡の衆生や諸々の大菩薩を度化しています。報身仏と応化身仏は、しばしば法を説くことはできますが、しかし説くべき法もありません。三蔵十二部経を説き、恒河沙数にも及ぶ仏法を説いたとしても、その説かれる法は真実に存在する法ではなく、様々な因縁に依って生じた仮有の法であり、縁が滅すれば即ち散じ、縁が起これば即ち生じ、幻生幻滅であって、仮に法と名付けるだけです。

また、法を説く者の五蘊もまた幻生幻滅であり、因縁が聚まって有り、因縁が散れば即ち滅び、いずれも真実の法ではありません。ならば、五蘊の身があって法を説くというこの事自体が、虚幻不実のものであり、仮に法を説くと名付けるのであって、ただこの現象に仮の名を付けているにすぎません。説くべき法がないのですから、如来には法を説く念もなく、度すべき衆生もなく、如来には衆生を度する念もないのです。まして、如来は常に常寂光土に住し、心は常に寂滅して、念も想いもなく、三界の法を念じず、念じるべき一法もなく、想うべき一法もありません。法を説いて衆生を度するという事業さえ念じ想わないのですから、ましてその他の雑念が生じることは、なおさらありません。しかし神様は、報身仏と応化身仏の法を説いて衆生を度する働きに妨げられることなく配合し、有情を利楽しています。配合してはいても、内心は依然として念も想いもなく、寂静無為なのです。

原文:尔时慧命须菩提白佛言。世尊。颇有众生。于未来世。闻说是法。生信心不。

解釈:このとき、大徳の智慧ある比丘僧である須菩提が世尊に申し上げました。世尊よ、未来の末法の世に、多くの衆生がこのような甚深な仏法を聞いて、信心を生じることがあるでしょうか、と。

須菩提がこのように心配して請問したのは、この仏法があまりにも深奥で理解し難く、一切の法相を破しているため、衆生に受け入れさせることが非常に難しいからです。しかも衆生は無始劫以来、相に執着することに慣れ、常に有の中を行じており、有相の淤泥から抜け出て、自心を空ずることが非常に難しいのです。もし善根と福德が十分に深厚でない衆生であれば、世俗の相に執し、名字の相に執して、このような甚深な大乗実相の法を聞いても、信心を生じることはなく、ある人は驚き恐れて安らぐことができず、狐疑して信じないでしょう。累生累世にわたって深厚な善根と福德を修集した人だけが、歓喜して信受することができるのです。

原文:佛言。须菩提。彼非众生。非不众生。何以故。须菩提。众生众生者。如来说非众生。是名众生。

解釈:世尊はおっしゃいました。須菩提よ、それらの衆生は表面から見れば衆生であるが、実際には衆生ではなく、しかし衆生と呼ばないわけにもいかない。なぜそう言うのか。須菩提よ、衆生と呼ばれる衆生について、如来はそれらを真実のものではないと言われる。実有の衆生ではなく、仮に衆生と名付けるだけで、ただの名前にすぎない、と。

世尊はここで再び衆生相を破しています。衆生相は幻化の相であって、法相ではなく、真実有ではありません。実相心である如来蔵 (tathāgatagarbha) に依り、業縁に依って、はじめて五陰 (pañca-skandha) の身が幻化されるのです。五陰十八界が和合した幻化の相に、私たちは仮の名を付けて衆生と呼びますが、実質的な自性は存在せず、ただ人の眼目を惑わす仮相にすぎません。それゆえ、それらの五陰の身は衆生ではないが、しかし衆生ではないとも言えず、私たちはこのような仮相に衆生という名を付け、名前をすでに安立したのです。すべての相はみな名字であり、しかもそれぞれに名前があって、互いに混同しません。五陰の虚幻の相には、衆生という名字をもって代表させ、衆生と言えば、五陰の身という相を指し示すことになります。それゆえ、仏は「彼非衆生、非不衆生、是名衆生」と説かれたのです。有相の世俗法はすべて、単なる名前にすぎません。それゆえ、この品は「非説所説分」と呼ばれるのです。如来は法を説いたのではなく、説かれた法も真実有の説ではなく、すべて幻化にすぎず、実義はありません。


——生如法師の開示
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