原文:須菩提。汝は如来に斯の念有りと謂うこと勿かれ。我当に説法有るべしと。斯の念を作すこと勿かれ。何を以っての故に。若し人、如来に説法有りと言わば、即ち是れ仏を謗るなり。我が説く所を解せざるが故に。須菩提。説法者は説く可き法無し。是を名づけて説法と為す。
解釈:須菩提よ、汝は如来に「如来は衆生の為に法を説き、広く衆生を利する」という念があると言ってはならない。如来には衆生の為に法を説こうとする念や考えは無い。須菩提よ、汝は決して斯く考えてはならず、斯様な思いを抱いてはならない。何故、斯様な観念を持たず、如来が法を説こうとしていると考えてはならないと汝に告げるのか。それは、もし人が「如来には説くべき法がある」とか「如来は既に法を説いた」と言うならば、それは即ち仏を謗ることであり、その人は真に我が説く法教を理解していないからである。須菩提よ、説法者には説くべき法は無く、仮に説法と名付けるのである。
如来は大慈大悲であるのに、何故世尊は須菩提が「如来には法を説いて衆生を度する念がある」と考えるのを許さないのか。何故如来には法を説いて衆生を度する念が無いのか。如来には三身の如来が有り、故に我々は三身の如来を分けて説き、三身の如来各々の徳能と功用を正しく理解すれば、何故如来に法を説いて衆生を度する念が無いのかが分かるであろう。三身の如来とは、即ち法身如来、報身如来、応身及び化身如来である。この中で法身如来は、真如の心体及び理体の無垢識であり、彼は形無く相無く、五蘊の身相無く、三十二相無く、然れども万法を蔵する。而るに報身如来及び応化身如来は、何れも五蘊の身相有り、三十二相有り、これらの身相は皆、法身如来より変化して来たものである。
それでは如来が法を説こうとすれば、五蘊の身を利用して法を説かねばならず、五蘊の身無くば法を説く能わず。五蘊の身有り、七識心有れば、初めて法を説く念が有り、五蘊の身と七識心無くば、法を説こうとする念は無い。法身如来は五蘊の身無きが故に、彼は法を説く能わず、法を説く道具無きが故である。若し人、法身如来も法を説き、且つ三蔵十二部経を説いたと言わば、即ち是れ仏を謗るなり。何となれば、真如の心体には口無く、舌無く、法塵にも対応せず、それで如何にして法を説くべきか。真如が法を説く能わざるに、尚も如来が法を説いたと言うならば、即ち是れ真如の体性を誤解し、世尊を誹謗するものであり、彼は世尊の説く真如の体性を如実に理解せず、仏の説く法義を解さないのである。
三身の如来の中に於いて、法身如来は法を説かず、五蘊の道具無きが故である。唯だ報身如来のみが日々断えず法を説き、地上の菩薩を度し、応化身如来は十方世界に於いて常に法を説き、愚凡の衆生及び諸大菩薩を度する。報身仏及び応化身仏は、常に法を説く能うと雖も、尚お説く可き法無し。三蔵十二部経を説き、恒河沙の数の如き多くの仏法を説くと雖も、其の説く所の法も、亦是れ真実に存在する法に非ず、諸々の因縁に依りて出生せる仮有の法にして、縁滅すれば即ち散じ、縁起すれば即ち生じ、幻生幻滅、仮に名づけて法と為す。
而して説法者の五蘊も、亦是れ幻生幻滅、因縁聚まりて有り、因縁散じれば即ち滅し、皆是れ真実の法に非ず。然らば五蘊の身有りて法を説く此の事は、即ち是れ虚仮不実にして、仮に名づけて説法と為し、唯だ此の現象に仮の名を取るのみ。説く可き法無きが故に、如来には亦た法を説く念無く、亦た度す可き衆生無く、如来には亦た衆生を度する念無し。況んや、如来は常に常寂光土に住し、心は常に寂滅し、念無く想無く、三界の法を念ぜず、亦た一法も念ず可き無く、一法も想う可き無し。法を説き衆生を度する事業も、彼は念ぜず想わず、況んや他の雑念に於いては、更に生起すること無し。然れども彼は妨げ無く報身仏及び応化身仏に配合して法を説き衆生を度し、有情を利楽すと雖も、配合すると雖も、内心は仍お念無く想無く、寂静無為なり。
原文:爾の時、慧命須菩提、仏に白して言わく。世尊、頗る衆生有りて、未来世に於いて、是の法を聞くことを得て、信心を生ぜんや。
解釈:此の時、大徳智慧の比丘僧須菩提、世尊に申し上げて言う。世尊よ、未来の末法の世に、多くの衆生が此の如き甚深の仏法を聞き、信心を生じ得る事が有りましょうか。
須菩提が斯く心配して問うのは、此の様な仏法は是の如く深遠にして難解であり、一切の法相を破するが故に、衆生に受け入れ難いからである。而るに衆生は無始劫以来、相に著するに慣れ、常に有の中に行じ、有相の泥濘より抜け出し、自心を空にする事は難しい。若し善根福徳の十分に厚からざる衆生は、世俗の相に著し、名字の相に著し、此の様な甚深の大乗実相の法を聞くも、信心を生じず、或る人は驚き恐れ不安になり、疑い信ぜず。唯だ累生累世、深厚なる善根福徳を修集せる人のみ、能く歓喜信受す。
原文:仏言わく。須菩提。彼は衆生に非ず、衆生に非ずに非ず。何を以っての故に。須菩提。衆生、衆生と謂うは、如來說く衆生に非ずと。是を名づけて衆生と為す。
解釈:世尊の説く。須菩提よ、それらの衆生は表面は衆生と見ゆれども、実際は衆生に非ず、然れども衆生と呼ばざるを得ず。何故斯く説くのか。須菩提よ、所謂、衆生と名付くる衆生は、如來は彼らは真実に非ず、実有の衆生に非ず、仮に名づけて衆生と為し、唯だ名字のみと説く。
世尊は此処に於いて再び衆生相を破す。衆生相は幻化の相にして、法相に非ず、真実有に非ず。実相心たる如来蔵に依り、業縁に依りて、初めて五陰身を幻化し得る。五陰十八界和合せる幻化の相、我々は仮の名を取りて衆生と謂い、実質の自性の存在無く、唯だ一つの仮相が人の眼を惑わすのみ。故にそれらの五陰身は衆生に非ずと雖も、衆生に非ずとも言い得ず、我々は此の仮相を、名を取りて衆生と為し、名字は既に安立せり。全ての相は、皆是れ名字にして、各々名字有り、相混じわず。五陰の虚仮の相は、衆生の名字を以て代表し、衆生と言えば、即ち五陰身の此の相を説明するなり。故に仏の説く。彼は衆生に非ず、衆生に非ずに非ず、是を名づけて衆生と為す。一切有相の世俗法は、唯だ一つの名字に過ぎず。故に此の一品を、非説所説分と名付く。如来は未だ法を説かず、説く所の法も、亦た真実に説く有るに非ず、皆是れ幻化のみ、実義無し。
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