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日常法話

2026年05月28日    木曜日     第1開示 合計4725開示

金剛経講解・一体同観分第十八

原文:须菩提。于意云何。如来有肉眼不。如是。世尊。如来有肉眼。须菩提。于意云何。如来有天眼不。如是。世尊。如来有天眼。

解釈:須菩提、あなたはどう思いますか。如来には肉眼がありますか。須菩提は答えて言いました。その通りです、世尊、如来には肉眼があります。世尊はまた問いました。須菩提、あなたはどう思いますか。如来には天眼がありますか。須菩提は答えて言いました。その通りです、世尊、如来には天眼があります。

肉眼とは、四大から構成される物質的な色法であり、身体の表面に浮かび、色塵と相対することができ、色塵の微粒子を勝義根 (indriya) に伝送する役割を担っています。これによって眼識が生まれ、そして様々な色塵の境界を明らかに弁別することができるのです。衆生の肉眼は、その形、色、機能がそれぞれ異なり、身体の頭部における位置もそれぞれ異なり、衆生の業種に依って異なる形態と機能が現れ、その色を見る機能もそれぞれ異なります。業力の違いによって、衆生が見る色法の高低、遠近、上下、大小、範囲、色彩、内包もそれぞれ差異があります。

人間の眼を例にとると、肉眼は障害物によって制限を受け、障害物の向こう側にある色体は見ることができず、目の前から障害物までの間にある物体しか見ることができません。障害物がない場合でも、普通の人の肉眼は最遠で数キロメートルしか見ることができず、眼から一尺以内では、近づくほどはっきりと見えなくなり、肉眼に密着させると、完全に見えなくなります。肉眼は光線の制限も受け、光が強すぎたり暗すぎたりすると、物を見ることができません。色体が精細であればあるほど、はっきりと見えなくなります。肉眼に病変や障害がある場合はなおさらで、たとえば老眼、近視、遠視、緑内障などであり、それゆえ衆生の肉眼には多くの限界があるのです。

しかし仏の肉眼はそうではありません。仏は三大無量数劫の修行によって、業障をすべて徹底的に滅し尽くしているので、肉眼で色を見る際には毫も障害がありません。仏の肉眼は四大の海水のように清らかで明るく、深くて広く、測り知れない深さです。仏経には仏眼を清蓮華の眼にたとえ、広くて長く、極めて慈悲の相であるとしています。仏の眼には丸くて膨らんだ形はなく、杏の眼を丸く見開くような相もありません。それは瞋恚の相です。仏心は慈悲に柔らかいので、眼もまた広長で細長い相であり、慈心と相応しています。仏の外貌は、三十二相八十種好であり、完全に仏心と一致しており、仏心の外現です。衆生の外貌もまた衆生の心の外現であり、衆生の心と一致しています。貌はその人を表わす、というように、衆生の心が貪であれば、相貌には貪婪の相が現れ、衆生の心が瞋であれば、相貌には瞋恚の相が現れ、衆生の心が痴であれば、相貌には愚痴の相が現れます。

仏の肉眼で色を見ることは、衆生のそれよりはるかに無量倍も殊勝であり、仏の肉眼には決して病の障害が現れることはなく、決して色が歪んで見えることはありません。仏の肉眼で色を見ると、極めて微細なところまで見ることができ、細菌のような極微細な色であっても、肉眼に障害はなく、すべてはっきりと見ることができます。人間のように顕微鏡や拡大鏡を必要とすることはなく、仏の肉眼は完全に顕微鏡や拡大鏡の代わりをすることができ、仏の肉眼は極めて遠くにある極迥色、極略色を見ることができるのです。仏の肉眼の功徳力 (puṇya-bala) は実に殊勝です!

天眼もまた色を見るものであり、色塵と相対しますが、天眼で色を見る場合には障害がなく、物質の遮障を透過して、極めて遠くにある色塵を見ることができます。たとえば他の星体や他の世界を見ることができ、あらゆる遮障物の後ろにある色塵を見ることができます。たとえば地殻の中の物質、須弥山の後ろの物質色法などです。天眼とは一般に天人の眼を指します。天人の色身は比較的微細であり、人間の色身のように粗重な四大の物質から構成されているのではないので、天人は神通を有し、天人の眼には神通があり、透視することができ、極めて遠くにある他の星体の色塵を見ることができるのです。鬼神・阿修羅・非人などの衆生も、その色身は粗重な物質色法ではなく、微細な四大から構成される物質色法であり、それゆえ色を見る際にも障害がなく、あるいは障害がやや小さく、彼らはみな小さな神通を有しています。その神通の大小はまちまちで、業力の違いによって、いくらかの差異があります。

人間の衆生が天眼を有する場合は、一つは生まれつき備わっている果報通 (vipāka-abhijñā) であり、もう一つは禅定 (じょう) を修めることによって獲得するものです。これもまた果報の違いや禅定の違いによって、天眼通には多くの差異があります。しかし仏の天眼通は、すべての天人、すべての阿羅漢、すべての辟支仏をはるかに超勝しており、またすべての諸大菩薩をも超えており、十方世界の無量の諸仏の国土を見ることができ、障害がありません。これは諸仏が三大無量数劫の修行によって得た殊勝な果報なのです。

原文:须菩提。于意云何。如来有慧眼不。如是。世尊。如来有慧眼。须菩提。于意云何。如来有法眼不。如是。世尊。如来有法眼。须菩提。于意云何。如来有佛眼不。如是。世尊。如来有佛眼。

解釈:須菩提、あなたはどう思いますか。如来には慧眼がありますか。須菩提は答えて言いました。その通りです、世尊、如来には慧眼があります。須菩提、あなたはどう思いますか。如来には法眼がありますか。須菩提は答えて言いました。その通りです、世尊、如来には法眼があります。須菩提、あなたはどう思いますか。如来には仏眼がありますか。須菩提は答えて言いました。その通りです、世尊、如来には仏眼があります。

慧眼とは、名の示す通り、智慧の眼であり、第六識・第七識が備えている智慧を指します。智慧はさらに、小乗の見道の智慧と、大乗の見道の智慧とに分けられます。小乗の慧眼は、小乗において我見 (ātma-dṛṣṭi) を断じた時に獲得し始めます。この智慧の眼によって、小乗の五陰 (pañca-skandha) が空であるという道理を知り、世間の一切の法を見れば、すべて苦であり、空であり、無常であり、無我であると見ます。小乗の慧眼が円満に通達すれば、小乗の一切智を備えます。すなわち世俗智、法智、類智、苦諦智、集諦智、滅諦智、道諦智、知他心智、尽智、無生智を含みます。この十種の智慧は四果阿羅漢が具足しうるものであり、五陰世間の一切の法の苦諦の真理、集諦の真理、滅諦の真理と修道の真理を知り、一切の法が空であり、生じて生ぜずであることを知り、また自分の五陰をどのように滅し尽くして、三界の生死を出離し、解脱を得るかを知るのです。

大乗菩薩の慧眼は、初めて明心して開悟した時に獲得します。生滅しない真実の心である如来蔵 (tathāgatagarbha) を証得したことにより、五陰の身は真如心に依って存在し、真如心が生んだものであることを知るので、五陰は虚幻であって我ではないと知ります。そして真心はもともと存在するものであり、生まれる必要もなく、真心如来蔵の働きを現前して観察することで、より多くの真心の体性を了知することができ、それによってより多くの智慧を獲得します。慧眼が円通した後には、大小乗の道理を通達し、見道の後に一分の唯識種智を具足すれば、初地に入り、法眼を獲得します。法眼を有する地上の菩薩は、世間の一切の六塵万法が、すべて真心如来蔵によって生じたものであることを現観 (vipaśyanā-caryā) することができ、この如来蔵のほかには、一法として独立して存在できるものはなく、一法として自体性を有するものはなく、すべてが如来蔵性であることを知ります。

眼根の対する一切の色法がどうであれ、耳根の対する一切の声法がどうであれ、鼻根の対する一切の香法がどうであれ、舌根の対する一切の味法がどうであれ、身根の対する一切の触法がどうであれ、意根の対する一切の六塵法がどうであれ、すべて如来蔵によって生じたものであり、例外はありません。これが法眼を有する菩薩の現観の智慧の境界であり、心の外には少法も得るものがないこと、心の外には一法として存在するものがないことを知るのです。

法眼が円通した後には、識を転じて智となし、大円鏡智 (ādarśa-jñāna) が現前し、仏道の功徳を円満し、一切種智 (sarvākārajñatā) を成就すれば、仏眼を具えることになります。仏眼は一切の法の実質を徹見することができ、一切の法の実相を了知し、一切の法がみな真如であることを見、一切の衆生もまたみな真如であることを見ます。世出世间において、知らない法は一つもなく、曉らない法は一つもなく、見ない法は一つもなく、毫も障害がありません。十方世界の一切衆生のすべての心行を知り、一つとして漏れることなく、一つとして差し支えなく、一つとして誤謬がなく、心は無碍に得るのです。

——生如法師の開示
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金剛経講解.なぜ諸心は皆非心なのか

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