中有の身にも六識は存在しますが、その作用力はやや弱く、人間の身体におけるほど強力ではありません。中有の身は業力の現れであり、物質的身体は人間の身体とは大きく異なります。物質的身体に依存する意識の思考・分析・判断機能は弱く、意根が意識による牽制作用を受けないため、業力と習性が完全に表れます。もし意根の煩悩の習性が転換されず、戒・定・慧も修習されず、善法と相応せず、福徳も修習されず、さらに三つの結び(三縛結)が断たれていないならば、必ず煩悩の結び縛りによって縛られ、三悪道に生を受けることになります。中有の身における一切の活動は、意根の業力が主導します。意根が善であれば善道に生を受け、悪であれば悪道に生を受け、あるいは意根の願力に随って生を受けるのです。
死有位(正死位)に意識が存在しないのは、なぜでしょうか。如来蔵が離れようとし、次第に四大の種子を収蔵し、もはやそれらを送り出さなくなるためです。五根の機能は次第に維持できなくなり、六塵を運び入れることができなくなります。意識を生じる縁が具足しないため、意識はもはや生じません。六塵の伝導が次第に少なくなるにつれ、六識はますます微弱になり、遂には滅び去るのです。
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