衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年03月10日    日曜日     第4 回の開示 合計1330回の開示

無記とは何か

楞厳経において仏は説かれた。衆生に五蘊の世間が現れていない時、ただ意根と如来蔵のみが幽玄なる状態にあり、朦朧として天地の広さも知らぬ様であった。意根は愚痴無明ながら、六識五蘊の働きが伴わぬため、何らの業行も造作できず、善悪の業及びその果報も生じない。これが意根の無記性である。

衆生に五蘊身が現れた時、意根に善悪の心行があろうと、不善不悪の心行があろうと、六根が互いに通じ用いられぬ限り、それ自体では何ら造作できず、ただ六識を通じて自らの思いを実現し、心行を満たすのみである。故に意根の全ての心行は無記業に属し、果報を伴わない。衆生に果報が現れるのは、意根が六識の身口意行によって自らの心行を実現し、身口意の行為の記録が業種として蓄積され、その業種が現行する時に初めて果報が生ずるからである。

六識の不善不悪なる無記業の中に、もし喜楽の心や貪愛の心が生ずれば、それは生死の結びとなり、生死に縛られる。これが即ち果報である。たとえ六識に貪愛や瞋恚がなくとも、その不善不悪の無記業は業種として如来蔵に蓄積され、業種ある限り必ず果報を生ずる。仏菩薩がこの世に来たりて造る善業や無記業には貪愛も喜楽心もない故に、生死の結びが生じず、六道の生死に縛られることはない。同じ事を行っても、心ある者と無心の者では、果報は異なるのである。

——生如法師の開示
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中陰身の一切の活動は意根の業力によるものである

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