衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年05月03日    日曜日     第1開示 合計4700開示

どうして自分の昔がとても荒唐だと感じるのか?

鶴千行:一生荒唐狂,満把辛酸涙。生如法師の多くの書物を読んだ後、その書物の内容と方法に従って、自分の身心の世界に没入し、細かく自分自身を観察した。よくぼんやりと立ち止まって、それらの法義を細かく観察し体得した。身心世界の外にある那些の音、映像、味、触覚は、本当に根源から追究していくと、様々な要素が合成された一つの泡沫に過ぎず、泡沫は立ち上り、すぐにまた砕けてしまい、得るものはなく、実質はない。内心のあの識心が、塵に触れた時に分別し出す善悪、好悪、順逆も、細かく推敲していくと、これもまた一つの泡沫であり、稲妻の如く、縁によって起き、縁によって滅するものであり、これもまた得るものはなく、実質はない。 

あの「私が見ている、私が聞いている、私が嗅いでいる、私が触れている」と考える私を、さらに深く観察していくと、実はそれも一つの認知に過ぎず、一つの誤認である。自分の身体を観察すると、外部の塵と何ら変わりなく、これもまた様々な要素が和合して成る泡沫であり、一つの道具に過ぎず、私自身ではない。外部世界の全てが泡沫であり、識心も泡沫であり、身体も泡沫であるならば、「私がある」と考えるあの認知も、ただの誤認でしかあり得ない。したがって、我々の身心世界も外部世界も、元来全て泡沫の堆積であり、一つの泡沫が次の泡沫へと連なり、全て夢幻泡影なのである。 

この点を観察した後、自分の前半生を振り返ると、突然荒唐無稽に思えてならない。荒唐なだけでなく、滑稽であり、まるで道化師のように、一場の不条理劇をそれほど真剣に演じていたのだ。そして狂笑が始まった。身心が制御不能になって笑い出し、自分の真剣さを笑い、あの執着を笑い、あの妄想や追求が限りなく荒唐で滑稽であることを笑った。笑い終わると、突然一種の辛酸が心に押し寄せ、また大哭し始めた。全身が震え、涙と鼻水が溢れ出た。辛酸だったのは、過去の一幕幕の酸甜苦辣が、全て自ら苦労を買って出たものであり、無妄の苦しみだったからだ。泣き終わり笑い終わると、全身心は一種の平静に入り、外部世界とは疎遠になった。まだこの世界に生きてはいるが、外部世界の全てが自分とは関係ないかのようだ。内心ではただ仏を念じ、浄土への往生を願い、菩薩の同士となることだけを望み、他の全てに対する興味を失ってしまった。金銭を追い求めることも、名利を追い求めることも、他人の承認を追い求めることも、さらにはあの高遠な理論を追い求めることさえも、もう望まなくなった。 

世界はまるで磁石のようなものだ。以前は磁性が強く、自分は引き寄せられて振り回されていた。しかし今はどうやら磁性が大幅に弱まったようで、ただ偶にいくつかの妄想や執着が起きるだけで、もう後続の原動力はなく、いくつかの泡沫が立ち上ったかと思うとすぐに消えてしまう。まるで根がないかのようだ。念が起きた時に観察すれば、泡沫は自ずと消え去り、後続の実質的な行為にはなり得ない。

今この世界に生きていて、しばしば夢の中に生きているような感覚がある。この世界に対する没入感はなく、ただの観察者でしかない。観察もただ平静で、作為的ではなく客観的な観察であり、「私が観察しよう」という心もない。生活に対して熱意が持てない。なぜなら、外に向かって求める心のエンジンが火を消したか、あるいは半死半生の状態で、ただ偶に力なく「ドクン、ドクン」と鳴るだけだからだ。この世界には追い求める価値のあるものは何もないように感じられ、ただ静かでありたいと望み、喧騒を好まず、縁に任せて生き、人に接し物事に対しても、夢の中にいるかのようだ。

これだけ話したのは、自己を証明したいからではない。実は自分はまだ初級段階にあり、未来にはまだ長い道のりが残っていると思っている。ただ言いたかったのは、生如法師の書物は実修を導くための書物であり、純粋な理論ではないということだ。理論は自分自身の身心世界を観察するための指針でありナビゲーションである。もし単に研究のためだけに使うのであれば、その意義はあまりにも小さい。

コメント: この二年間のあなたの言行の変化を見ていると、ますます修行が進み、ますます菩薩の性質が現れていると感じる。これほど深い自己観察があり、これほど深い悟りがあるからだ。このような観察の智慧は、相応の禅定力なしには得られない。なぜなら、それは分析ではなく現量の観察だからだ。あなたは禅定について語ってはいないが、現量の観察の智慧はそれを示している。あなたのこのような悟りは、ほぼ初果向の境地に達していると言える。ただし、あなたの禅定の修行状況と照らし合わせて初めて、現在どの修行段階にいるのかを具体的かつ如実に判断できる。あなたの心は現在、小乗の空にあり、大乗の空はまだ発起していない。そのため、やや消極的に見える。これはまだ初級の段階であり、徐々に出世間の心を持って世間に入っていくことで、その時には円融になるだろう。一歩一歩ゆっくり進めば、結果は全て円満である。私の弟子たちは、本当に私の予想を超えている。師である私は、もう収穫を得始めている。以前のように苦しむことはなくなった。 

私は以前、仏法の研究が好きで、仏典も多く読み、師匠の著書も多く読んだ。しかし、自分がこれほど多くのことを知り、様々な理論を自在に使いこなし、体系化さえしているのに、なぜ様々な境界が来た時に、依然として貪りや怒りを抑えられないのかと気づいた。だから、理論を研究するだけでは駄目だと悟った。実際に修行するしかないと。そこで理論を手放し、ただ心の観察に専念し、日常生活の行住坐臥の中で、念が起これば覚り、覚れば止め、止めれば観を起こす、ということを続けて、ようやく少しずつ収穫を得られるようになった。全て師匠の実修を重視する教えのおかげであり、身心ともに歓喜している。

——生如法師の開示
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