衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年04月25日    土曜日     第1開示 合計4692開示

天人のコミュニケーション方法は意根に念心所の法があることを証明する

欲界の天人の間で互いにコミュニケーションを取る際には、人間のような言語や文字、音声を用いず、すべて心念を通じて行われます。なぜなら、彼らは他心通を持ち、他人の心意を速やかに理解できるからです。天人の心念が生じると、それは「じゅっ」という音とともに極めて速やかに伝達され、同時に表情が伴います。口を使って話す必要はなく、口は無用です。表現する際には強い電磁波の波動が生じ、相手はその電磁波の音を聞き、表情を見て、即座に相手の心意や考えを理解します。心念が動くと電磁波が波動し、エネルギーが放出され、信号が相手に届くのです。この電磁波のエネルギーは意根から発せられ、意根が心念・心意を持つこと、つまり人間が話すことに相当します。意識にはエネルギー波はなく、体内のエネルギーの流れを動員することもできません。

天人が電磁波を受け取り、相手の心意や考えを理解するのは、まず意根が受け取って理解し、その後で意識が理解します。天人は電磁波を発動し受け取ることで互いに交流し、他心通を持つ衆生には色界や無色界の天人、そして諸仏菩薩も含まれ、彼らも皆この方法で互いに交流し、考えを伝え合います。意識の言語・文字機能は用いません。多くの天人が集まって問題を議論する際も、すべて心念を用い、目つきや表情を見て、相手に応答します。話し声はなく、文字による書面表現も用いません。したがって、彼らには文学作品もなければ書籍もなく、言語・文字の芸術や規則を学ぶ必要もなく、人間界のような煩わしさや虚栄はありません。

意根は一瞬のうちに自らのすべての考えを速やかに表現でき、その内容は非常に豊かです。意識が長々と述べても表現しきれないこともあり、意根を用いた交流が如何に時間と労力を節約できるかがわかります。非常に知恵のある人が自らの考えや構想を表現しようとする時、往々にして苦労します。なぜなら、意根の中には知恵の結晶がさっと流れ出て、非常に多く深遠で内容豊かなため、それを発表して他の人に理解してもらい学んでもらいたいと思うものの、それが大変骨が折れるからです。時には苦心惨憺し、周到に構想を練り、言葉や文を選び、表現や用語を推敲し、言語の構造を配置し、表現の方法や手段を工夫する必要があり、非常に頭脳と労力を費やし、しかもとても遅いのです。

もし人間の脳にチップを埋め込み、脳の意根にある考えや思考を即座に文字に変換できれば、それは大いなる脳の革命となり、その成果は驚異的なものとなるでしょう。創造力のある科学の巨匠たちは最大の受益者となり、その知恵が絶え間なく出力され、人類社会に利益をもたらすでしょう。そうなれば、もはや脳内の心念・考え・知恵が意識のものだと愚かにも考える者はいなくなるのではないでしょうか?意識の知恵は直接、言語・文字・音声で表現できるのですから、これほど大げさな手間は不要なのです。

より知恵のある人ほど、意根を多く用い、意識は少なく用います。より上位の衆生ほど、意根を多く用い、意識は少なく用い、ついには八地の菩薩に修すると、意根が直接六識に取って代わり、意識は省略できます。諸仏菩薩は皆、直接意根を用います。六識は簡略化できるなら簡略化し、五俱意識はまだ多少用いますが、独頭意識はほとんど用いません。なぜなら、諸仏菩薩の知恵はすべて現量であり、独頭意識の思惟・分析・推理・判断を用いる必要がないからです。

高級な生命体が皆、意根を用いて交流するのであれば、人間の意識が用いる文字・言語・音声など、大したものではありません。それは単なる補助的な道具に過ぎず、あってもなくてもよく、それほど重要ではないのです。しかし、人間は自ら文字・言語・音声を非常に重んじ、様々な言語芸術、表現技巧、文字や言葉の駆使や積み重ね、音声の訓練などを行い、これらの意識的なものを生存の手段と見なしています。他道(他の世界、特に天道)へ行けば、これらの技能は用いる場所がありません。天道の衆生だけでなく、三悪道の衆生も主に意根に依存して交流し、心意を表現します。人間だけが言語・文字を用い、遠回しな表現をするのです。

したがって、意根の機能は非常に強力です。勝解心所法もあれば、欲心所法もあり、自らの考えを持ち、交流して表現したいという欲もあれば、享楽したいという欲もあります。つまり、意根には五別境心所法があるのであり、古い唯識で言われているような、ただ一つのか細い哀れな慧心所法だけではないのです。もし意根にただ一つのか細い慧心所法しかなければ、いったい何ができるでしょうか?ほとんど何もできず、ましてや仏を学び修行することなどできません。仏を学びたいという欲や考えがなければ、修行しようという心念もなく、仏を学ぶ動力もなく、仏法を勝解することもできず、仏法は心に入りません。どうして見道の智慧など得られましょうか?仏法を学ぶことは結局、何も達成できないことになってしまうのではないでしょうか?


——生如法師の開示
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