衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年04月21日    火曜日     第1開示 合計4688開示

実修の真の効果

如春:このところ座禅を組むと、外でどんなに大きな物音がしても全く気にならず、時々内心焦って「早く起きて外の様子を見なければ」と思うのですが、どれほど自分を叱咤して起きようとしても身体が全く言うことを聞かず、動けず立てず、自分を責めても無駄でした。お経を読む時も同様の状態になることがありました。数日間は話すのも億劫で、誰かに話しかけられても「うん」と一言返すだけで、口が重く開けるのも疲れて大変でした。

食事も同様で、空腹を感じず胃は張っているのに、ただ習慣で時間になると食べるものの、咀嚼も嚥下も消化も非常に困難に感じられました。後にこの状態が修行の妨げになると気づき、常に自分を戒め「動き回り多く話せ。静かにするな、安易に座るな」と心がけました。座ると静寂が訪れ、頭の中で「ジージー」という強い信号音のようなものが響き、後頭部から気圧が迫ってきて座禅へ誘われるのですが、一度座ると長時間動けなくなるからです。

結跏趺坐すると、腿の付け根から何とも言えず快い感覚が湧き上がり、頭の中や耳の奥で時折「パチッ」という澄んだ音が響き、時には大きく鳴ります。暑くないのに頭頂や後頭部だけ汗がにじみ、身体は発汗しません。座を解いた後は頭がすっきりし、観じ終えていない法理が自然に頭の中で巡り続け、手元の作業を妨げることもありません。頭頂部が時折張るような感覚があります。身体は軽快になり活力がみなぎりました。煩悩も薄れ、批判を受けても反応は緩やかで焦らず怒らず、相手の要求に従い素直に応じるため、煩わしさはほとんどありません。ただ時々反応が鈍く、間が抜けて見えるのが少々焦りを誘います。

観行も幾分向上したようです。以前の観行は主に自心を内省するか現象を観察する程度でしたが、後に師父から「それは枝葉を摘むようなもの。根を断たねばならぬ」と諭されました。私が「どうすれば根を断てますか」と尋ねると、師父は「まず小乗の空を証し、次に大乗の空を証せよ」と答えられました。そこで五蘊の苦・空・無常・無我を観じるよう試みたところ、以前は道を見失ったように感じ観じ方も分からなかったのですが、今回は少し感覚が掴め、観じ方が分かってきたようです。法理を学ぶ際も解脱の視点から理解し観察できるようになりました。

師父の講評:座禅の時間を長く継続すれば禅定が深まり、量変が質変をもたらす。ゆえに座中に下座を気にかけたり周囲の人事物に心を奪われたりせず、世俗の習気を改め、心を修行へと転じるよう努めよ。

汝が語る禅定中の身体状態から見ると、頭頂の気脈が通りかけ、七輪のうち海底チャクラも開きかけている。まことにおめでたい現象である。身体の気脈が滞りなく通じれば禅定に問題はなく、深く細やかな観行に十分活用できる。そして汝の観行は今や正道を歩み、軌道を外れ右往左往することはなくなった。止観の両面が正軌に乗り深まっているのだから、さらに努力すれば成果が現れ、初果向の境地へと向かうであろう。

心性も十分に善良で清浄であり、解脱への憧れと出離心を抱き、正しい知見を持っている。福徳の修行も常に精進しており、見道を支えるに足る。鈍さにも利点はある。師の言葉に従い諫言を受け入れ、なお精進する。鈍い鳥がついに利口な鳥を追い越そうとしている。師父である私がこれまで汝に注いだ心血も、そろそろ報われようとしている。過去の苦労も報われるというものだ。もし他の者も同様であれば、この百数十斤の身を投げ出しても惜しくはない。何らかの見返りがあるのだからな。

世にいる利口な鳥たちは確かに賢いが、その賢さを発揮する場所を誤っている。未だ世間にしがみつき掴もうと躍起になっているが、手に掴んだものは果たして何か? 生滅を繰り返すばかりで、何一つ持ち去れるものなどない。賢さが仇となり、むしろ鈍い方がましだ。世俗の才が少なければ俗世にまみれる機会も減り、全身を穢れで汚すこともない。

修行に効果が現れる時期は皆、外界への反応が鈍く間抜けに見えるものだ。心が外界に向いていないからである。我々は寧ろこの鈍さを貫き通し、最終的に悟りを開いてさらに鈍くさらに間抜けになるべきであって、世間で小賢しく立ち回るべきではない。小賢しい者たちは結局、その賢さで三悪道へ堕ちるのだ。三悪道でどう小賢しく振る舞えようか? ただ悪業の報いを受けるのみである! 修行が進んだ者に共通する特徴は、概ね「間抜けに見える」ことだ。だがこれは世間人の評価に過ぎない。世間人の判断に何の信頼性があろうか? 全てが愚見である。世間人の知見に従えば彼らと同じく三悪道へ向かう。我々は生死の大事を解決し、無上の真理を体得せねばならぬ。世間人にどう見られるかは気にせず、世間人の目を恐れてはならない。あらゆる面で世間人と異なって初めて、修行に良い兆しが見えたと言えるのだ。

修行が進み世俗の習気が少ない者は、世俗人とは互いに相容れず、双方が相手を疎ましく思うものだ。このような状況で密接に関わろうとするなら、一方が耐え忍ぶことでようやく和やかな関係が保たれる。そうでなければ双方が不快になる。そして耐え忍ぶ側は代償を払わねばならない。まるで長身の者が小柄な者と向き合う時、長身の者は腰を折り頭を垂れて小柄な者に合わせねばならない。その苦しみは想像に難くない。腰は痛み足は疲れ、苦しみを口に出すこともできぬ。師父である私は生涯このように腰を折り頭を垂れてきた。その苦しみは誰にも語れず、誰にも理解されず、ただひたすら耐え忍ぶのみであった。いつか耐える必要のない日が来ることを、そして弟子たち全員が長身の者となり、私が再び腰を折る必要がなくなることを願い続けてきたのだ。


——生如法師の開示
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修行が一定の時を迎えれば、必ず因果の借りを償う必要がある

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観行色身不浄

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