衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年04月02日    木曜日     第1開示 合計4668開示

大智慧者は必ず全局に着眼して問題を見る

まだ修行の正しい軌道に乗っていない人の心は散乱しており、外界の新しい物事に多くの関心を向け、よく境界に従って動かされ、雑然としてまとまりがなく、自分の内心に対してさえ何ら気づくところがない。衆生の心について、以前私は一つの喩えを話したことがある。衆生の心は一匹の犬のようなもので、他人が何かを適当に投げると、その物に向かってワンワン鳴きながら突進していく。風が草を揺らして少し音がするだけでも、何か大変なことが起きたと思い、その音の発生源に向かってワンワンとやかましく吠える。犬とは暇を持て余しているだけで、自分が追求すべき大事というものを持っていないのだ。多くの衆生もこれと同じで、世間に起こるどんな事も大事事と、首を伸ばして飛んでいき、生生世世、何の成就もない。

境界に注目すること自体は構わない。境界の中で境界の実質と本質を見抜くことができれば、それが智慧である。先のあの動画について、なぜ多くの人は最初は画像が隆起しているように見え、後には凹んでいるように見えたのだろうか? それは一般の人は細部に注目して全体を切り捨ててしまうからだ。心が細部に迷わされると、全局と全体を観照する精力と智慧がなくなってしまう。まさに西瓜を捨てて胡麻を拾う典型である。全局を俯瞰できる人こそ大智慧の人であり、遠く高くを見渡せる人こそ大智慧の人であって、どんな人にもどんな事にも惑わされない。そして全局と細部のどちらにも行き届かせ、観察できる人は、もはや並みの智慧を持つ人ではない。

一般の人は世間法を見ればそれは世間法であり、境界に入り込んで迷ってしまう。だが証悟した人が世間法を見れば、すべては如来蔵 (tathāgatagarbha) と如来蔵の功能属性であり、あるいは世間法はすべて七大種子の集合体と見える。七大種子は無相であるから、世間法にどうして相があろうか? 心を細部に定めるのと全局に定めるのとは、どちらもじょう (samādhi) ではあるが、結果は大きく異なる。だからむやみやたらに定めてはならない。定める目標を誤れば、それは邪定となる。

問題を見るときは、まず全体から把握し、全局に着眼してから、細部を見て、それによって全局を補助的に説明すべきである。逆に見れば、結果は逆になるかもしれない。たとえば、ある人が話をし物事を行っているのを観察する場合、物事の表面だけから見れば、この人はとても善良で智慧があるように思える。しかし、この人の前後全体の為人と用心から見れば、この人の計画と企てから見れば、全体から見て、この人が大きな陰謀と奸計を抱えていること、行う種々の小善が、その大悪を実現するためのものであることが見えてくる。もし衆生が皆これに賛同し従い、その陰謀を成功させてしまえば、極めて多くの人の利益が害されることになる。智慧のない衆生はこの人を善と見るが、智慧ある者はこの人を大悪の人と見る。智慧があるかないかで見える結果はまったく正反対となる。ところが、ちょうど智慧のない人が非常に多く、智慧のある人は少ないか、あるいはいないために、悪人の悪が実行に移されるのである。

——生如法師の開示
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