衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年03月25日    水曜日     第1開示 合計4660開示

古唯識における瑕疵

玄奘法師が翻訳、あるいは半翻訳半著作した成唯識論に説かれている意根の体性には、意根は無記 (avyākṛta) 性であり、善でも悪でもないと説かれている。私は当時、玄奘法師の説いたことに疑義を唱える勇気はなく、彼の説くことはすべて正しいと考え、彼の説く通りに意根のこの体性を理解しようとした。しかし後になって次第に誤りに気づき、意根の体性を修正し直した結果、一部の人々の反発を招いた。

最初に唯識を講義したときは智慧が足りず、成唯識論を疑うことも、名声きわめて大きい玄奘法師やその他の唯識師を疑うこともできなかった。ところが後に誤りが判明し、自分が観た通りに講義したところ、人に依り法に依らず(依人依不了法)という人々の反発を招いた。名声の差があまりにも大きいため、他人の説く法に従って講義しないと、多くの面倒を引き起こすことになるからである。

私が意根心所法という本の中で説いた意根心所法は、意根の体性をかなり修正し、古唯識とは異なるものとなった。最初はこの本を公表する勇気がなく、障害が大きく、不必要な面倒を引き起こすのではないかと恐れていた。しかし後に意根について講義する機会が増え、多くの人が意根について正しい認識を持ち、受け入れられるようになったので、ウェブサイト上で公開し、誰でも自由にダウンロードして読めるようにした。

考えてみてほしい。もし意根が無記 (avyākṛta) 性で、善でも悪でもないなら、それは成り立つだろうか? 明眼な人なら一目でわかる。意根は善悪が入り混じっており、修行とはまさに神様を修するのである。意根が悪を断じて善としなければ、衆生はいかにして成仏するのか? 意根に悪がなければ、衆生は何のために仏を学び修行するというのか?

衆生は愚痴で智慧がないために、名声の大きいもの、とりわけ古人を盲信することしか知らず、法に依りて人に依らずということが根本的にできない。法に依りて人に依らずという言葉は、スローガンとして流布し、形だけの儀式となっており、それを実行できる人はほとんどいない。

玄奘法師はこの論を翻訳するにあたって、自らその中に陥り込み、自らに汚点を残し、後世の智者に評価されることとなったが、あまり値しないことである。当初、ある人が成唯識論の中の問題について私に尋ね、私が解説したところ、ある箇所まで解説したときに明白な誤りを発見し、それ以上解説を続けるのをやめた。私はもともとこの論を講義するつもりでいたが、誤りを発見してからは、講義する勇気がなくなった。自らその中に陥り込み、どちらの面でも好結果を得られず、値しないと恐れたからである。

以前、窺基大師の著作を読んだことがあるが、多くは読んでいない。読んで間もなく、その中の誤りがかなり明白で、しかもかなり多いことに気づいたので、読むのをやめた。もし古唯識に瑕疵や欠落がなかったなら、なぜ第二代の窺基大師のところで伝えられなくなり、ぷっつりと途絶えてしまったのか? それはまだ像法時代であり、法がそれほど衰退しておらず、衆生の根器 (indriya) もまだ悪くなかった時代である。


——生如法師の開示
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暗々裏に問題をかけたまま思索するのは意根である

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意根の率直な特質

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