六識の縁ずる一切は内相分の幻境である以上、人が豚を殺す場合も、実は外境の豚には全く触れていない。では、豚はどうして死んだのか。これは秘密であり、しかも大いなる秘密であって、自ら参究して悟らねばならない。一旦悟れば智慧は並外れたものとなる。六識が接触するのは内相分の豚であるのに、外相分の豚は死んでいる。これはどういうことか。参究して悟れば開悟するが、禅定の力がなければ参究することはできない。真に開悟していなければ、この問題に答えることもできない。真の悟りと偽りの悟りを見分けるには、多くの公案や話頭で問い詰めることができる。答えられなければ、自らの悟りがどのようなものか、いかに悟ったのか、何を悟ったのかをよく考えてみる必要がある。
目が自分の手を見ても、真実の手には触れていない。手で自分の頭を触っても、真実の頭には触れていない。自分の声を聞いても、真実の声には触れていない。自分の体臭を嗅いでも、真実の体臭には触れていない。ましてや他の衆生に触れること、ましてや他の色・声・香・味・触に触れることは、真実に触れることなど不可能である。リンゴを食べる場合、本来は自分の内相分を食べているのに、外相分のリンゴは消えてしまう。他人が食べられなければ、不愉快に思うだろう。
心が意図して生み出す独影境は、完全に自らの如来蔵が現出した内相分であり、他人とは無関係である。例えば、ある人の健康を念じると、結果的に外相分のその人の身体は実際に健康になる。これはどういうことか。豚を殺そうと念じ、禅定の力が優れていれば、豚も殺すことができる。これはどういうことか。
ある者は「ただ一蹴りすれば、その場で悟れる」と言う。しかし、この一蹴りには少なくとも四つの識が共同で和合して作用している。どうやって四つの識のそれぞれの機能と作用を区別するのか。このような悟りは、オウム返しと変わらず、意識心を悟ったに過ぎない。このような公案もできるが、何の珍しいことがあろうか。
かつて雪峰禅師は多くの開悟した善知識を参拝し、徳山禅師の下で数十年も参究した末、ようやく開悟した。香厳禅師は師の下で十八年も仕えても開悟せず、最後は一人で古寺に隠遁して参禅し、石を投げて竹に当たったことでようやく開悟した。荷沢神会和尚は生涯をかけても、ただ解悟したに過ぎなかった。古代の人は善根が厚く、禅定の修行も優れていたが、それでも参禅は大変な苦労を伴い、衣带は次第に緩み人は憔悴し、座蒲団を数十枚も坐り潰した。現代の人は善根が古代人に遠く及ばず、禅定はさらに劣り、人格は言うまでもない。なぜ自らがやすやすと開悟することを望むのか。そんなに容易に悟れるとして、いったい何を悟れるというのか。もし仏法を推測するなら、推測は許され、推測で悟ることもできるかもしれないが、畢竟それは推測と呼ばれるものであって、証悟ではない。
0
+1