衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年02月12日    木曜日     第1開示 合計4608開示

意根は単に無記だけではない

清風:随煩悩である昏沈・掉挙などは有覆無記性に帰すべきであり、無記ではあるが聖道を妨げるものである。十の小随煩悩は煩悩習気に属し、第七識に随眠しており、これは地上の菩薩になって初めて断じ得るもので、これらは全て有覆無記性に帰すべきである。先日、ネット上で狂人がこれらを用いて師父の開示を攻撃しているのを見た。第七識の全ての煩悩を有覆無記と見做しているのである。

『瑜伽師地論』では我見・我愛・我慢・我痴を有覆無記性と定義している。例えば我見は、自らの身体を真実の我と見做すものであり、これは邪見であって単なる誤った見解に過ぎず、聖道を妨げて我見を断ち切れなくするため、有覆無記に属すると理解できる。しかしこの我慢、例えば仏法を信じない者が経典を理解できずに騙されていると見做し、自らが仏陀より優れていると考えるような者である。このような者は今も少なくなく、ここに我慢が存在し、仏陀と仏法を誹謗する業があるため、無記とは言えないはずである。したがって有覆無記とは、煩悩習気が比較的正しい状態にあるものを指すべきである。

評釈:煩悩と善は対立関係にあり、煩悩心所法と善心所法は対立している。不善不悪の心所法は無記性に属し、煩悩と善心所法は無記性ではない。したがって小随煩悩心所法は無記性ではなく、善とは反対の断除すべき悪心所法である。全ての煩悩心所法は悪業を引き起こすため、それは確かに不善であり、どうして無記性であり得ようか。

有覆無記において、「覆」は覆い隠し障るという意味である。何が覆いを有しているのか?それは意根である第七識であり、何を覆っているのか?意根自心の清浄なる智慧を覆い隠し、自心が大小乗の真理・真相・実相を認識することを妨げている。何故覆う作用があるのか?自心の無明煩悩によるものである。したがって意根には無明と煩悩があり、これが六道の生死輪廻を引き起こす。意根に無明煩悩があり、かつ主導識であるならば、五陰身が造り出す身口意行、悪業行を含めて、これらは意根が主導して造り出したものではないのか?もちろん意根が主導して造り出したものであり、これらの身口意行は全て意根の心行・心性を体現しており、悪業は意根の悪心所法・煩悩心所法を体現している。それでは意根は単なる不善不悪の無記心と言えるのか?決してそうではない。意根には善心、悪心、不善不悪心が存在する。

煩悩は悪に属し、善には属さず、不善不悪にも属さない。煩悩心所法が悪性に属する以上、不善不悪の無記性には属さない。これは理解が難しいことではない。修行の根本は意根を修めることにあり、もし意根に悪心・煩悩心・無明心がなければ、何を修行すると言うのか?六識にも悪心・煩悩心・無明心は存在せず、そうなれば衆生はたとえ仏でなくとも、仏に近い存在となるであろう。

「意根は有覆無記性である」という説は仏典に由来するものではなく、古代唯識師の論書に由来する。そして、誰であれ智慧が地上の菩薩の水準に達していない者は、意根の心性問題について現量観行することはできない。それは禅定と智慧が不足しているためである。したがって唯識師が地上の菩薩に等しいわけではなく、現量観行による甚深な唯識法の道種智・唯識種智を有するわけではない。それゆえ著した論書が円満でなく、瑕疵や不足があるのは不思議ではない。名声が広大であるからといって、その著作が全て正しく誤りがないと推奨すべきではない。仏陀が説いた法のみが完全に正しく誤りがないのである。仏陀の説かれた「法に依りて人に依らず」という原則は、ほとんどの者が実践できていない。智慧が不足し、弁別能力が極めて低いためであり、特に地上の菩薩が修める甚深な唯識法についてはなおさら弁別能力がない。それならば発言せず、軽率に意見を表明すべきではない。

私は2016年に唯識の講義を始めたが、当時は智慧がまだ浅く、唯識法に精通していなかった。ある人々が成唯識論などの論書から抜粋した唯識に関する質問をしてきたが、当時の私はこれらの論書から離れて独立して思考・観行することが全くできず、これらの見解を絶対的に正しいものとして解答していた。後に次第に前後矛盾する点や自己矛盾する点を発見し、次第に元の論書を捨てて自ら観行するようになった。元は『成唯識論』全体を解説する計画であったが、問題点を発見してからはごく一部の段落のみを解説し、それ以降の解説を中止した。論書に沿って解説すると私も誤りを犯して人を誤らせてしまうためであり、論書に沿わずに解説すると論書に背くとして誹謗されるため、どちらの結果も良くないからである。私が最初に解説した唯識法義には、唯識論に随順して解説した個所に誤りが若干あったが、書籍を整理する際に可能な限り修正した。

古代唯識論では「意根には捨受のみがある」と説かれているが、私は当時から疑問を抱いていた。身心における受を観察すると矛盾点が発見され、実際と一致しないためである。もし意根に捨受しかなければ、その者の心はどれほど平穏で平静であろうか。ほとんど如来蔵と同じで、情緒も煩悩も躁動もなく、人と争わず奪わず、反撃も報復もせず、好むことも嫌うこともない。このような心で、まだ修行が必要だろうか?悪業、さらには重大な悪業を造ることができようか?全くできない。このように平穏で清浄な心は禅定を具足しやすく、改めて特別に禅定を修める必要もなく、自然に禅定が具足されるはずである。しかし事実はこれと逆であるならば、それは意根に捨受だけでなく苦受と楽受もあることを示しており、それ故に煩悩と清浄性が生じ、善悪の業を造作して生死輪廻を引き起こすのである。

ある弟子が言った:大多数の者は書物を暗記するだけで、かつ情への執着が深い。先入観として植え付けられた知見があると、それを覆すのは非常に困難である。孟子が「書物を盲信するより書物なしの方がましである」と言ったのは、書物への盲信を打破するためである。仏法における「法に依りて人に依らず」という原則も、個人の感想ではあるが、人間性におけるこの巨大な弱点を目指して設定されたものである。

——生如法師の開示
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金剛経講解・持経功徳分第十五

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