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日常法話

2026年02月05日    木曜日     第1開示 合計4601開示

金剛経解説.なぜ菩薩は菩提心を発して相に住すべきではないのか?

離相寂滅分第十四原文:是の故に須菩提よ。菩薩は一切の相を離るべし。阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし。色に住して心を生ずべからず。声・香・味・触・法に住して心を生ずべからず。住する所なき心を生ずべし。若し心の住すること有らば、即ち住に非ざるなり。是の故に仏は説きたまう。菩薩の心は色に住して布施すべからず。須菩提よ。菩薩は一切の衆生のために利益せんが故に、応に是の如く布施すべし。

解釈:この故に須菩提よ、菩薩は一切の相を離れて阿耨多羅三藐三菩提心を発し、仏となることで衆生を利楽せしめんとする心を起こすべきである。色法に住して心を生ずべきではなく、声・香・味・触・法に住して心を生ずべきではない。菩提心を発する時には、住する所なき心を生起すべきである。もし菩薩の発心がこれらの法相に住すれば、これらの所謂る住は全て非法の住であり、理に適わぬ住であり、結果は空幻にして得る所なく、住しようとしても住し得ない。故に仏は菩薩の心は色法に住して布施すべきではないと説かれた。須菩提よ、菩薩は一切の衆生を利益せんが為に、この如く住する所なくして布施を行じるべきである。

何故菩薩は一切の相を離れて菩提心を発すべきか。菩提心を発するのは自利利他、衆生と共に仏道を成就し涅槃の彼岸に到達し、寂静にして清凉なる空寂の境界に住せんが為である。而してこのような境界を証得するには、金剛心の実相を実証すると同時に、金剛心が顕現する一切の法の空相をも証得しなければならない。一切の法相が空であり得る所なき以上、相に住して心を発し、相に住して修行し、相に住して布施することは仏道に背き、菩提を証得し得ない。故に菩薩は菩提心を発するに当たり、世間の種々得難き利益、例えば荘厳なる相貌を得んが為、富貴栄華を得んが為、天に生まれて福を享けんが為、神通を得んが為、長生不老を得んが為、衆生の崇拝を得んが為、他人に打ち勝たんが為、転輪聖王たらんが為、天主たらんが為など、これらは全て色声香味触法に住するものであり、菩提の大願を実現せず、菩提の大道を成就し得ない。

もし心に住するところあり、六塵の相に住し、六塵の相に執着すれば、それは法に適わぬ住であり、無上菩提に相応しない。故に仏は、菩薩が心を発して修行し布施を行うに当たり、色に住して布施すべきではなく、色法上の利益の為に行うべきではないと説かれた。声・香・味・触・法に住すべきではなく、声香味触法の利益の為に布施の度を行じるべきではない。金剛心の如く一切の法に住する所なくして心を発すべきである。

何故菩薩は色声香味触法に住して心を生ずべきではないのか。第一に、金剛般若の心は相に住しない菩提心であり、それ自体一法にも住しない。識心が菩提心の体性と一致して初めて仏となることが出来る。識心が六塵の相に住すれば空が無く、金剛心の体性に背き、金剛般若の心に相応しない為、仏道を成就し得ない。第二に、六塵の相は生滅変異の法であり、久しく住することの出来ぬ法である。相に住して修行すれば、その功を虚しくし菩提を得られない。第三に、相に住して布施すれば、心中に相あり、遮障あり、無明あり、法界の実相を徹見できず、心が空浄でなければ涅槃の彼岸に到達できず、心中に法あれば仏果を成就し得ない。故に菩薩は仏道を修行するに当たり、住する所なくして心を発し修行すべきである。

もし菩薩の心に住する所ありて布施を行えば、利益を得る衆生は少なく、一切の衆生を普く利益することが出来ない。その心に限量あり、福徳に限量あり、智慧にも限量あるが故に、全ての衆生を普く広く利益することが出来ないのである。

原文:如来は一切の諸相は即ち是れ相に非ずと説きたまう。又一切の衆生は即ち是れ衆生に非ずと説きたまう。須菩提よ。如来は真実の語る者なり。実語の者なり。如語の者なり。誑わすことなき語る者なり。異なることなき語る者なり。

解釈:如来は三界世間の一切の相は真実の実有の相ではなく、如来はまた一切の衆生は真実の衆生ではなく、実質ある衆生相はないと説かれる。須菩提よ、如来は真実を語る者であり、虚偽の言葉を決して語らない。如来は実語を語る者であり、決して妄語しない。如来は虚誑を弄することをせず、決して衆生を欺かない。如来はまた二つの言葉を語る者ではなく、決して二様の言葉を語らない。

世間の一切の相は全て如来蔵が幻化した生滅変異の虚妄の相であり、自主性も自在性もなく、自らの実体性ある存在もなく、その実質は全て如来蔵の性である。一切の衆生相もまた如来蔵が幻化した虚妄の相であり、自主も自在性もなく、真実の自性はない。表面は衆生の属性があり、衆生の五陰の活動があるように見えるが、実際には全て如来蔵が顕現し幻化したものであり、真実の意味での衆生相は存在しない。

「如来」という語は、明には五蘊身の仏(報身仏・応身仏・化身仏)を指し、暗には法身仏を指す。法身仏は形なく相なく、仏の無垢識と衆生の如来蔵である。法身仏としての如来は真如の心体、即ち如来蔵を指す。成仏後、仏の七識と法身の無垢識はその性徳が近く、全ての無明を滅尽する故に、その心性は真如に極めて近く、心所法は全て同じであり、五遍行心所・五別境心所・善十一心所を有し、八識全てが二十一心所法である。

真語とは、正真の語である。現量の語であり、如来蔵が現量境を変現し得ることを意味し、比量や非量を含まない。全て事実に符合し、衆生の業種にも符合し、常に衆生の業行の原貌を如実に呈する。実語とは、如実の語である。衆生が業を造るに当たり、善悪・無記を問わず、如来蔵は如実に記録・収蔵・出力し、衆生の業果を如実に実現する。決して衆生の業行・業種・業果報を変更・疏漏せず、何の業であるかによってその業を記録し、何の果報であるかによってその果報を実現する。

如語とは、一方で如実語・真実語を指し、一方で心体の如如不動の性、即ち心思を動かさず心行なきことを指す。如来蔵が一切の法を変造する時、内心は如如不動で、生心動念せず。情緒も情感もなく、完全に捨受である。不誑語者とは、誑(あざむく、欺く)ことなき語る者である。如来蔵は決して衆生を欺誑せず、決して衆生を騙さない。然るに衆生の六識は常に口業不善であり、言葉で欺き、真実語・如実語を語らず、妄語・両舌・綺語・悪口が絶えない。常に矛先をそらし、遠回しに非難し、事実真相を隠蔽し、嘘を捏造し、不如実語・妄語・虚言・弁解・賢者を妬むことなど、あらゆる口業を造る。

不異語者とは、異(変異・不同・変化・別異)なることなき語る者である。異語とは、表裏を使い分け、甲にはこう言い、乙にはああ言い、或いは今はこう言い、後でまた別のことを言う、即ち二様の言葉、或いは言ったことを変える、約束を守らないことである。これらの心行は凡夫の六識の心行であり、六識の造る口業不善、口徳なきことはこれである。また慚愧を知らず、悔い改めを知らず、無慚無愧、即ち煩悩悪習である。然るに如来蔵は決して二様の言葉を語らず、異なる言葉を語らず、あれこれ変わらず、また支離滅裂にもならない。衆生の善業種を収蔵しながら悪業種を出力して衆生に悪報を受けさせることはせず、逆に悪業種を収蔵しながら善業種を出力して衆生に善報を受けさせることもない。表裏を使い分けず、如何なる変異も起こさず、業種と因果に不忠実になることは決してない。

そして五蘊身を有する報身仏・応身仏・化身仏も、法身仏と同じく、永遠に真語者であり、永遠に実語者であり、永遠に如語者であり、永遠に不誑語者であり、永遠に不異語者である。仏の七識心は既に一切の無明煩悩及び煩悩習気を滅尽し、究竟に識を転じて智と為し、その徳は比類なく無上であり、その口業は完全無欠にして微塵の瑕もなく、円融無碍で、十方世界の全ての衆生をして比類なき仰慕と敬仰の念を抱かしめる。


——生如法師の開示
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