如法受持分第十三原文:须菩提。于意云何。可以三十二相见如来不。不也。世尊。不可以三十二相得见如来。何以故。如来说三十二相。即是非相。是名三十二相。
解釈:須菩提、あなたはこの問題をどう見ますか。三十二相によって如来を見ることができるでしょうか。須菩提は答えて言います。できません、世尊、三十二相によって如来を見ることはできません。なぜそう言うのかというと、如来の御心によれば、如来が説かれる三十二相もまた真実の相ではなく、仮に三十二相と名づけるだけのものだからです。
三十二相が真でないなら、それはまた如来でもないわけですから、そのほかに真の如来があるはずです。それなら私たちは三十二相を如来と見なすべきではなく、また三十二相の上に如来を求めるべきでもありません。真の如来は三十二相の背後に隠れており、その真の姿を見ようとするなら、極めて大きな智慧と福德が必要です。三十二相は如来ではなく、五蘊もまた我ではなく、人でもなく、衆生でもなく、寿者でもありません。それゆえ私たちは五蘊のいずれの一蘊あるいは全部を我として執取して捨てないようにすべきではなく、五蘊の相を破り、さらには我相・人相・衆生相・寿者相を破らなければなりません。
如来には三十二相八十種好がありますが、三十二相は真実存在する相ではなく、八十種好も真実存在する相ではなく、いずれも無から有へと生じ、有もまた空である相です。それは如来の無垢識が、如来の三大阿僧祇劫の修行による善業の種子によって変現した相であり、その性質は空であり、相もまた空であり、三十二相とはすなわち仮相なのです。転輪聖王にも三十二相があり、仏の従弟である難陀比丘にも三十一相があり、魔王でさえ三十二相を変現して現すことができます。もし相によって人を認識すれば、容易に誤認してしまいます。もし相が滅すれば人も滅したかのように見えますが、実際には如来は滅しないのです。だからこそ真相と仮相を見分け、相を破り執着を破らなければ、智慧を増長して相に縛られないようにすることはできません。
原文:须菩提。若有善男子。善女人。以恒河沙等身命布施。若复有人。于此经中。乃至受持四句偈等。为他人说。其福甚多。
解釈:須菩提、もし善男子・善女人が、恒河の砂のように多くの身命を布施したとします。さらに別の人が、この金剛経の中で、四句の偈ひとつであっても受持して理解し、他人のために説くならば、その人が得る福德は、恒河の砂のように多くの身命を布施することよりも、はるかに多いのです。
世尊は前の文章ですでに二度、金剛経あるいは四句の偈を受持して他人のために説くことによって得られる福德は、三千大千世界の七宝を布施すること、恒河の砂のように多くの七宝を布施することによって得られる福德よりもはるかに多いと説かれました。ここでさらに強調されているのは、恒河の砂のように多くの身命を布施することよりも福が多いということです。七宝や財物の布施は外財の布施であり、色身の布施は内財の布施であり、内財の布施は外財の布施よりもはるかに多くの福を得るものであり、両者は比べものになりません。なぜなら外財は内財に依存して存在するものであり、外財を失っても、また得ることができますが、内財を失えば、何も残らないからです。
衆生は無始劫の間、自分の色身の生命をしっかりと執着し、自分の身体や寿命に少しの危害も加えさせようとしません。ましてや布施として捨て去ることなど、清浄な大願を発した大菩薩でなければ、極めて難しいことです。等覚菩薩は成仏のための福德がまだ足りないため、一日も早く仏道を成就するために、百劫の間、専ら福德を修め、自分の内財を布施します。衆生が身体のどの部分を必要とすればその部分を布施し、何を求められれば何を布施します。飢饉の世においてはさえ、大きな身体に変化して衆生に食用として与え、衆生の飢えを解決します。このようにして成仏のための福德を積み重ねて初めて候補の仏となり、兜率内院で因縁の熟するのを待ち、人間に下って八相成道し、円満に仏果を成じるのです。
色身の生命の布施がこれほど重要であり、福德がこれほど大きいにもかかわらず、世尊はそれでも金剛経および四句の偈を受持して衆生のために演説することによって得られる福德の大きさには及ばないと説かれました。なぜなら、金剛経を受持して明心見性することは、仏道を成就する基礎であり、明心見性の後は智慧がますます深く広くなり、最終的には仏地の智慧を具足することができるからです。しかし、外財と内財の布施の福德はいずれも具足すべきものであり、外財の布施によって得た福がなければ、福德が具足せず、明心見性することもできず、地上菩薩となって一歩一歩上へと進んで修めることもできません。そして内財を布施することによって、自我という小我を完全に棄捨し、徹底した無我に達してこそ、究竟の大我、および仏地の常楽我浄の我を証得することができるのです。
世尊は布施の重要性を繰り返し説かれました。財布施、無畏布施、法布施はいずれも非常に重要であり、前の二種の布施によって修めた福德がなければ、法布施を行うことはできません。なぜなら、法を証得しないまま行う法布施は、往々にして衆生を誤導し、福がないばかりでなく、罪の報いさえあるからです。だから修行者は布施行を修めることに長けていなければならず、これは菩薩の六度・十度の万行において最初に修めるべき内容なのです。
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