時間の定義とは、心法と色法の運行の過程であり、この過程の長短を表示する法を時間と呼ぶのです。つまり、物質の変化過程の長短を時間と呼ぶのです。例えば、赤ちゃんが生まれて一ヶ月になることを満月と呼び、一ヶ月は時間であり、生まれて成長して一年になることを一歳と呼び、一年もまた時間ですが、実はいずれも赤ちゃんの成長発育の過程の一つにすぎず、実質的には時間というものは存在しません。赤ちゃんが生まれて一秒、一分、一時間、一天、あるいは成長して一年、十年、二十年というのは、すべて赤ちゃんの色身の成長過程を指しており、時間という法は存在せず、時間は受動的に表示されるものなのです。
これは物質である色法によって時間を定義するものであり、もし心法によって時間を定義するならば、一人の人間の心智の成熟度によって年齢層を区分することになります。それぞれ、認知度の低いものを乳幼児期、少児期、青年期と呼び、心智が成熟し認知力の高いものを成年期、中青年期、老年期などと呼びます。名称は数多くあります。
心が定まっているかどうか、情緒が安定しているかどうか、悠々としているか切迫しているかによって、時間の速さや長短を画定します。心が定まっていればいるほど、安定していて、悠々としていて、快適で、愉悦であればあるほど、感知する時間は少なくなります。逆であれば感知する時間は長くなります。今、時間が止まって動かなくなったように感じる人がいるとすれば、実は心が動かなくなり、外の物事を分別しなくなったのであり、外の物事によって表示される時間は当然感知できなくなるのです。実のところ時間というものは存在せず、時間が動くとか動かないとか言うのはすべて戯論であり、亀の毛や兎の角がどうのこうのと論じるようなもので、すべて戯論なのです。
私たちは時間を見るとき、時計を見ます。時計の上で秒針、分針、時針が組み合わさって時間を表示します。これらの針がなければ時間はなく、これらの針があっても同様に時間はありません。時間の最も根本的なものは、空における太陽の運行の位置によって表示されます。太陽がなければ時間はなく、太陽があっても同様に時間はありません。太陽が地平線から昇るとき、人類はこの状態を一天の朝と定義し、同時に温度が比較的低いので、朝日が昇るこの状態を朝と定義します。太陽が頭上の空まで昇ると、人類はこれを一天の正午と定義します。太陽が沈んで地平線の下に入った状態を、人類は一天の夜と定義します。このように太陽が一周運行することを、人類は一天の時間と定義します。さらに太陽の運行周期の回数を統計して、それぞれ十天、半月、一ヶ月から十二ヶ月、一年、二年などと定義します。すべての長短の時間は物質である色法に依拠して初めて表示されるものであり、時間と呼ばれる真実の法など存在しないのです。
19
+1