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日常法話

2025年12月24日    水曜日     第1開示 合計4560開示

金剛経講義.菩薩の仏国土荘厳相もまた空である

荘厳浄土分第十 原文:須菩提よ、おもんみよ。菩薩は仏土を荘厳するか。否、世尊。なんとなれば、仏土を荘厳するとは、すなわち荘厳にあらず。これを名づけて荘厳という。

釈:須菩提よ、このことについてどう思うか。菩薩は仏土を荘厳するか。須菩提は答えて言う:菩薩は仏土を荘厳しない。なぜそう言うのか。いわゆる仏土の荘厳とは、実体や真実の事象があるわけではなく、ただ名相上の荘厳に過ぎず、事象は幻化のものだからである。

世俗の法相において言えば、菩薩のすべての修行、すなわち六波羅蜜や十波羅蜜の修行はすべて仏土を荘厳するものであり、菩薩のすべての衆生救済の事業は仏土を荘厳するものである。修行の種子および衆生救済の種子は自心の如来蔵に留まり、種子が最大化に積み重なるとき、成仏の因縁が熟する。そしてこれらの種子を用いて荘厳なる仏国土を化現する。ゆえに一切の菩薩行はすべて仏土荘厳の行である。では菩薩は仏土を荘厳するのか。もちろん荘厳するのである。

しかし世尊の通用される金句を当てはめれば、いわゆる荘厳とは、すなわち荘厳にあらず、これを名づけて荘厳という。意味は、菩薩が仏土を荘厳しても、真実の荘厳相があるわけではなく、菩薩のすべての行いは空であり、幻化のものである。相はあっても理はなく、有は仮の有であり、相もまた空である。実質的な真実の荘厳事象は存在せず、実質はすべて真如・一真法界・金剛般若の実相心であり、その他一切は空幻で実体がない。一切の法は永遠に壊れない金剛心を除けば、すべて名相・仮相であり、実体として執着してはならない。菩薩は大いなる夢中の仏事を行うが、すべて空の心・無所得の心をもって行い、行いながらも行わず、常に執着せず、名声や利養を貪らず、見返りを求めない。凡夫はこれと反対で、常に心に所得を求め、求め、期待し、心が空でなく、相に執着する。

仏の国土が如何に荘厳であるかは、仏の修行過程において発した大願が具体的に何であるか、修行過程における行為の造作がどのようなものであるか、すなわち仏の無垢識にある種子が何であるかによる。菩薩の三阿僧祇劫にわたる修行は、まさに自らの未来の仏国土を荘厳しているのであり、この荘厳の方法は世俗の荘厳方法とは全く異なる。ゆえに菩薩は仏土を荘厳しない。この荘厳方法は実在するものではなく、ただこの方法に仮の名前をつけて荘厳と呼ぶに過ぎない。

なぜこの荘厳が真実ではないのか。菩薩の発した清浄なる大願は、意根と意識心が発するものであり、虚妄の法である。発した後はまた滅するため、発願自体が生滅法であり、真実で本来より存在し永遠に滅しない法ではないからである。菩薩が菩薩道を行じる時のすべての行為の造作は、生滅法であり、すでに消失して滅している。生生世世の七識妄心の造作もまた滅しており、すべての菩薩の六波羅蜜万行・十波羅蜜万行は七つの識の妄心が行うものであり、生滅法である。菩薩の行為は生滅法であり、すべて滅している。これらの六波羅蜜・十波羅蜜の菩薩行による荘厳の方法は真実の法ではなく、永遠に存在して滅しない法でもなく、本来より存在する法でもないため、真実の荘厳ではないのである。


——生如法師の開示
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金剛経解説・荘厳浄土分第十

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金剛経解説.如何にして応無所住而生其心か?

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