一相無相分第九 原文:須菩提よ、どう思うか。阿那含は『私は阿那含果を得た』という念を起こすことができるか。須菩提は言った。『いいえ、世尊よ。なぜなら、阿那含は『不来』と呼ばれるが、実は『不来』というものは存在しない。これが阿那含と呼ばれる所以である』。
釈:須菩提よ、この件をどう見るか。阿那含は『私は阿那含果を得た』というような念を持つことができるか。須菩提は答えて言った。阿那含はそのような念を持つことはできない。なぜそう言うのか。阿那含は「不来」と呼ばれるが、実際には「不来」という法相(実体)は存在せず、つまり阿那含果を証得したという事実そのものが存在しない。阿那含は単なる仮の名称に過ぎないのである。
三果を証得した者は、心は二果の者よりもさらに空(くう)であり、『私が如何に』という念は更に存在しない。したがって、『私は阿那含である』と念々に考えることはない。もしそのような念があれば、心念が空でないことになり、阿那含を証得したとは言えない。阿那含は初禅以上の禅定を得ているため、命終した後は色界の五浄居天(五不還天)に生まれ、そこで引き続き修道を行い、五浄居天において四果である阿羅漢を証得する。そのまま無余涅槃に入り、再び人間界には戻らない。それ故に不還果、または不来果と呼ばれるのである。実際には、人間界に「来ない」という事実そのものも存在せず、「来る」ことも「来ない」ことも、いずれも実在する事柄ではない。これらは全て幻化した仮の相(姿)に過ぎず、その仮の相に再び名前を付けて阿那含、あるいは三果と呼ぶのである。したがって、真に証得すべき阿那含果という実体が存在すると考えることはできず、三果の聖者は実在する者であると見なすこともできず、執着心や慢心を起こしてはならない。そうでなければ、それは三果の聖者ではないのである。
なぜ阿羅漢は『私は阿羅漢果を証得した』という念を持つことができないのか。
原文:須菩提よ、どう思うか。阿羅漢は『私は阿羅漢道を得た』という念を起こすことができるか。『いいえ、世尊よ。なぜなら、実に阿羅漢と名づけられる法(実体)は存在しないからです。世尊よ、もし阿羅漢が『私は阿羅漢道を得た』という念を起こすならば、それは即ち我相・人相・衆生相・寿者相に執着していることになります』。
釈:須菩提よ、この件をどう見るか。阿羅漢は『私は阿羅漢果を得た』というような念を持つことができるか。須菩提は答えて言った。阿羅漢はそのような念を持つことはできません、世尊よ。なぜそう言うのか。実に阿羅漢と名づけられるべき何らかの法(実体)は全く存在しないからです。世尊よ、もし阿羅漢が心の中でこのように考えるならば:『私は阿羅漢果を証得した』と、その者は即ち我相・人相・衆生相・寿者相に執着していることになります。それはもはや阿羅漢ではないのです。
いかなる者でも、もし『私は如何にした』という心念を持ち、真に『私が如何にした』という実体があると認めるならば、それは既に我相に執着しているのであり、他の三相(人相・衆生相・寿者相)も即座に現れる。阿羅漢も同様であり、もし自分が阿羅漢果を証得したと認めるならば、心の中に我相が存在することになり、それによって人相・衆生相・寿者相も明らかに存在することになる。その者は阿羅漢ではないのである。世の中に実に阿羅漢と呼ばれる何らかの法は存在しない。阿羅漢を構成する色身と識心(五蘊)は生滅変異し幻化するものであり、実存する法ではない。それゆえ阿羅漢と呼ぶことはできない。阿羅漢果は単なる一つの状態や境地に過ぎず、得ることも見ることもできる実質的な果ではない。阿羅漢果を証得するという事柄自体が、幻化した生滅変異の法であり、実存する法ではない。もしそれが実存する法であるならば、それは恒常に存在するはずであり、修行しなくても恒常に阿羅漢果を証得していることになってしまう。
したがって、阿羅漢には『私は阿羅漢果を証得した』というような念は存在しない。阿羅漢果を証得した後、内心は空(くう)で寂静であり、四相の影すら微塵も存在しない。人間界を歩むことも、ただの躯(からだ)の如くであり、いかなる是非や争いも存在しない。これに反して凡夫は、我見が作用し、四相が乱れ立っており、常に煩悩と争いの中にある。我見が重い者ほど、我相も重く、心はますます清浄ではなくなり、煩悩もより重くなり、是非や争いもより多くなる。逆に我見が軽ければ軽いほど、心はより清浄で是非もなくなるのである。
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