現代の仏教修行者には修行の体系と次第がなく、方法も千差万別で、各自が勝手に修行しています。例えばある者は夢幻観を修していますが、悟りを得ていない者が如来蔵の働きを眼前に観察することはできず、最も基本的な未到地定も得ず、初禅定はなおさらです。どうして夢幻の観行が修得できましょうか。これほど多くの段階を飛び越えて修行するとは、いかなる根器の持ち主なのでしょうか。夢幻観を修了すれば十回向位に至り、直ちに初地に入ることができます。禅定の三関を突破し、生死の関をも通過するのは小乗の三果人の証量であり、そこに至るまでに無量劫をかけて仏道を修行し、その善根福德は極めて大きいのです。
証果を得ず、明心せず、初禅定もない者がこの関門を突破するには無数劫を要し、その過程で未到地定、我見の断ち切り、二果、初禅定、三果、明心、如幻観、陽炎観、牢関を経て初めて夢幻観を成就できます。これほどの段階を飛び越えて夢幻観を修行するのは、意識による理解さえ困難であり、仮に意識で多少理解できたとしても、夢幻観を証得するには無数劫の時間を要します(再来の者を除く)。
また平等観を修する者がおり、一切の人・事・物・理を平等平等と見て真如一相としています。これはいかなる境地でしょうか。平等とは何を指すのか。何に基づいて平等と言えるのか。平等法には三種あります:第一に如来蔵の平等、一切の人・事・物・理を平等平等と見て上下を区別せず、これは如来蔵が一切法を分別しないためです。第二に一切法空を証得した阿羅漢の平等、一切衆生を空・無我と見るため、ある程度一切衆生を空と観じます。第三に転識得智した地上菩薩の平等、意根が如来蔵を証得し、転依に成功後、平等性智を証得するため、一切衆生を如来蔵性と見、一切法を如来蔵と見ることで、ある程度一切衆生を平等に扱えます。大小乗の法を証悟していない凡夫が、どうして地上菩薩の平等観を修し、一切衆生・一切事理を真如一相と見ることができましょうか。その隔たりはほぼ無量劫に及び、このような修行は何の利益もなく徒労に終わります。
また心に住することなく修行する者がおり、世間の一切の人・事・物・理の交渉の中で、常に心を無住に保とうとしています。しかしこの無住は理由もなく達成できるものではなく、ある理を証得し、その理に依って初めて次第に心を無住にできるもので、長い時間をかけ煩悩を断ち切り、平等性智を証得した後に初めて徐々に可能となります。相当の証量がなく、仏法を実証していない者が、何に依って心を無住にできましょうか。地上菩薩でさえ無住を完全に実践するのは容易ではなく、凡夫がどうして無住を成し得ましょうか。
また戒律を飛び越えて修行する者がおり、人間界の一切の逆縁・順縁の中で心に戒相を留めず、一切の相を消滅させようとしています。五戒さえ守れず、身行の戒行も不十分で、殺生・盗み・邪淫・飲酒を戒められず、菜食もできず、口行の妄語・両舌・悪口の戒めも守れず、内心の貪・瞋・痴の煩悩が依然として強い者が、どうしてこれらの戒相を排除し、心に戒相を留めず無相の戒を修することができましょうか。有相の中で身行と語行を守るのも容易ではないのに、どうして無相を成し、戒相を不要とできましょうか。これは地上菩薩のみが成し得ることで、凡夫がどうして無相戒を修することができましょうか。
もし強引にこのように修行すれば、自らを欺き人を欺くのみで、至る所で戒を犯しながら、自らの心が無相に達しこれらの相を気にしないと考え、その結果は三悪道の果報となります。唐代に既に悪報を受けた例があります。真実に悟りを開いたある禅師は智慧が高く心が清浄であったため、仏菩薩の名号を袴の帯に記しました。それを見た別の者が興味を持ち、禅師のまねをして仏菩薩の名号を下着に書き身に着けました。禅師は後でこれを知り不吉に感じましたが、時既に遅く、その者は数日後に大量に吐血し、悪報がこれほど早く現れるとは予想もせず、命終後の果報はさらに悲惨なものとなりました。よって仏教徒は心が未だ清浄でなく、煩悩を断ち切らず、転識得智していない場合、無相戒を修する資格は全くなく、強引に戒相を留めないようにすれば、自らを煩悩の深淵に堕とすのみで、何の利益もありません。
末世の衆生はあまりに聡明で利発すぎるため、表面に浮かび意根に深く入ることができず、意根の機能を発揮できません。意識は全てを理解しているが、意根は何も変わらず、結果として果報は意根に従って転じます。意識が初地から八地の菩薩の修する法を好高騒遠に修め、意根の人格・人柄の修養がまだ整っていない場合、命終の時来世の運命はどう決定されるのでしょうか。意識に依るのか、それとも意根に依るのか。意識が仏地の法を修めても、命終して仏となれるのでしょうか。
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