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日常法話

2025年11月28日    金曜日     第1開示 合計4537開示

金剛経講義・我見による我相の現れ

個人の達成感、誇り、傲慢さ、劣等感など、これらの感覚や感情はすべて受覚(感受作用)に属し、我見に依存して存在する。我見がなければこれらの感覚は消失し、我は空となる。これらの感覚はすべて我相に属し、その中には人相・衆生相・寿者相も関わっている。したがって、ある人物が我見を断じたかどうかは、これらの相から完全に判断できる。我見を断った者はこれらの現象を非常に明瞭に見抜き、容易に判断できる。我見を断っていない者も、我見と我相の内実や現れ方を理解することで、おおよその判断が可能である。

我相と我見は、個人の身口意の行為を通じて現れる。これは隠蔽できず、また隠蔽する術もない。根深く定着した「我」をどう隠せようか?身口意の行為がなければ別だが、それは不可能である。「無我に達した」「我見を断った」と自認する者は、これに照らして自身の我相を点検すべきである。有るか無いか、軽いか重いか、たとえ微細であれ我相であることに変わりない。私の感受作用は色身(肉体)と心理に分かれ、身体感覚と心覚の両方が我相である。我が有るか無いかは相から判断できる。微細な我相を持つ者は我見断絶に近く、粗重な我相を持つ者は我見断絶が極めて困難である。各自は常に自心の我が軽いか重いか、修行によって変化があったかを点検すべきである。

もしある人物が初果で断ずべき我見すら断っておらず、我相がそれほど深刻ならば、大乗において明心見性することは不可能であり、ましてや三賢位や地上菩薩の証量と果徳を具えることはありえない。これらの徳は一切備わらない。その人物の言説ではなく、実際の日常生活における行動、人や事柄への具体的な対応の仕方を見よ。個人の身口意の行為こそが最も真実を表し、その者の徳行を如実に映し出す。口先で理路整然と語る内容は偽装や欺瞞の可能性があり、完全に信頼すべきではない。

我見を断った者は必ず我相が軽減・消失し、人との接し方や物事の処理に自我がなく、低姿勢で誠実、人に対して平等である。自分が他人より尊く特別だとは思わず、他人が自分より卑劣で賤しいとも思わない。この平等心は我相と人相の空に基づくもので、未だ究竟ではない。初地以上の菩薩は意根が識を転じて智となり、平等性智を獲得する。その平等心は小乗の平等心よりも純粋で勝れている。我見を断ち、すでに無我となった者には我相・人相・衆生相がなく、その内面は空である。人との接し方は内省的・低姿勢・謙虚であり、外向的ではなく、自己顕示を好まず、誇りや達成感を持たず、他人の賞賛・称賛・崇拝を必要とせず、他人が自分を高く評価しようと低く評価しようと意に介さず、決して高姿勢に振る舞わない。高姿勢に振る舞い、自らを誇示することを好む者にはすべて我見と我相が存在する。

多くの者の我見は甚だ重く、自我の消失を恐れるため、手段を選ばず存在感を求め、絶えず自我の価値を確立しようとする。これらは非常に明白な我相であり、このような者が我見を断つのは困難で、今生での成就は望み薄い。無我を観行する者の中には、無我の萌芽を観じた際に自我の消失を恐れ、「私がなくなっては大変だ」「私が消えてどうするのか」「この世界をどう捉えればよいのか」と内面で思い、無我の観行を続ける勇気を失う者もいる。

この時には忍耐が必要であり、迂回しながら徐々に自ら(意根)を染習・説得すべきである。無始劫以来、「我」に依存し執着する習慣が極めて強固であるため、突然意根が依存・把捉の対象を失うと恐怖心が生じる。観行は徐々に行い、我見断絶には意根が無我を受け入れる過程と緩衝期間が必要である。修行には過渡期があり、その長短は自身の染習の力量による。過渡期を速やかに越えるには、無始劫以来の我執による罪業を懺悔し、楞厳咒(りょうごんじゅ)を多く誦するか、懺悔礼拝して仏菩薩の加護を願うべきである。空の理論を学び、空理を思惟し、じっくり染習を重ねることである。


——生如法師の開示
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