円覚経において世尊は微細な我相についてこう述べられている:例えば、ある人が全身の調和が取れ、快適で、四肢がリラックスし、心身が静寂で極めて静かな状態にあるとき、突然身体の存在を忘れ、身体がどこにあるのかもわからなくなる。この時に針でそっと身体を刺すと、すぐに痛みを感じ、「私が痛い」と無自覚に感じ、心の中に我相が現れる。衆生は無自覚に身体を私だと感じ、覚知を私だと感じ、五蘊を私だと思っている。これは非常に微細な我相であり、衆生に普遍的に存在する。
金剛経で説かれている我相は、粗いものも細かいものも含まれており、主に重い我相を指す。比較的重いものから非常に重いものまでの我相を、衆生は普遍的に具えている。我見を断っていない凡夫に現れる我相は、時と場所を問わず存在し、特に顕著であるが、それに気づかず、悟りもない。これは仏法を学ぶ者も学ばない者も同様である。仏法を学び修行する人々の中にも、我見・我相は非常に深刻であり、自我を際立たせようとして、ややもすれば自分は非凡で人より優れていると思い込み、常に意図的か無意識かに自分が証果を得た、明心したなどと誤解し、何の証拠もなく至る所で宣伝し、他人の尊崇や特別な目で見られることを望み、ついに他人に勝った、ついに面目を施したと思い込み、極めて自惚れ、傲慢で尊大になり、眼中に人もなく、行為は邪悪になる。これらはすべて我相を具えている現れであり、その中には人相や衆生相も存在する。人相、衆生相、寿者相が存在すれば、必ず我相があり、我相があれば必ず後の三相がある。四相は分離できない。
我相は多くの場合、人相と密接に関連している。そのため互いの比較や対比が生じ、嫉妬、競争、争い、論争、さらには様々な戦争さえ起こる。国と国の間の戦争は、個々の我相・人相が集まって集団的な我相・人相となり現れたものである。様々な団体の競争や争いも同様で、小さな自我が大きな自我となり、我相はさらに大きくなり、作用力もさらに強くなる。一見個々には自我がなくなったように見えるが、実際にはすべて我相である。
世俗界における我相はさらに甚だしい。世の人は一般に権勢、名利、身分、地位、名誉、階層、金銭などのしるしを我相とし、その中に深く陥り、執着して捨てず、虚偽の面目のために、人に一目置かれるためならば、どんな代償でも払い、他人の視線や評価を極めて気にする。そして可能な限り自分の優位性や独自性を人に示し、他人の羨望を得て、自分の虚栄心を満たそうとする。こうした事例は挙げればきりがなく、至る所に存在するため、ここでは例を挙げない。この中には人相の関与があり、そうでなければ他人の視線や評価を気にすることはない。我相があるため、いわゆるあの私のために、際限なく貪・瞋・痴が生じ、五欲の楽しみを存分に享受し、六根(五官)は一刻も休む暇がない。たとえ眠っていても、財・色・名・食を気にかけている。凡夫はこのようにして、少しも高遠な志がなく、低次元の五欲に執着し、金を稼いで享受するだけである。
要するに、凡夫は我相があるため、すべての身・口・意の行いが我相を中心に回転し、我相を十分に示している。もし我相がなければ、それほど多くの貪欲もなく、生活ははるかに簡素になり、それほど多くの作為もなく、多くのことは自然に止む。心がなければ事もなく、欲がなければ求めもない。身・口・意の行いは非常に控えめで、再び目立とうとしたり、自己をアピールしたり、自己中心になったりすることを望まない。一人の人間の心に我相があるかどうかは、言行に無意識に現れ、隠しきれず、偽ることもできない。なぜなら、骨の髄までの習性は抑えきれないからである。
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