衆生が私であると考えるものは、五蘊十八界を私と見做し、真実であると思い込んでいるが、実際はそうではない。五蘊とは色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊を含み、色蘊とは形体であり、入胎後の受精卵から始まり、胎児・嬰児・児童・少年・青年・中年・老年の色身へと成長する過程で、絶えず変化し、生滅を繰り返す。生・住・異・滅の現象があるものは無常であり、偽りであり、虚妄であり、苦である。それは真実の私ではない。
受蘊とは感受であり、主に意識心が苦・楽・不苦不楽を感受することを指す。眼が色を見るときに感受があり、耳が声を聞くときに感受があり、鼻が香りを嗅ぐときに感受があり、舌が味を嘗めるときに感受があり、身が触覚を感じるときに感受があり、心が法を思うときに感受がある。これらの感受は生滅変化して止まない。苦受が多くなると、心が麻痺して苦を感じなくなり、不苦不楽受へと変わる。苦が少し減ると、心は喜びを感じる。例えば一日に三十回打たれていた者が、ある日十五回に減ると喜ぶ。楽が多くなると楽しみではなくなり、不苦不楽へと変わる。受蘊は死亡・昏迷・無想定に入る・滅尽定に入る・夢無き睡眠時には消滅する。それは変化無常であり、生滅があり、苦である。真実の私ではない。
想蘊とは心が相を取ることを想とし、了別・分別・計画・打算・思惟・判断、要するに妄想である。五つの状況下で想がある。眼が色を見るときに想があり、青黄赤白・長短方円・粗細を了別し、心で分析・思惟・判断などを行う。耳が声を聞くときに想があり、声の高低・粗細・遠近、男声・女声・動物の声・宇宙の音・山谷の音・河流の音などを了別し、同時に分析・推理・判断・打算などを行う。鼻が香りを嗅ぐときに想があり、香臭の種類・程度・方向・遠近を了別し、分析・思惟・判断・計画・打算などを行う。舌が味を嘗めるときに想があり、酸・甘・苦・辛などを了別する。身が触覚を感じるときに想があり、心が法を思うときには更に想がある。この想蘊は死亡・昏迷・無想定に入る・滅尽定に入る・夢無き睡眠時に滅する。それは生滅的・無常的・虚妄的・不実的であり、苦である。苦なるものは私ではない。
行蘊とは時間の流転・空間の転変・地点の変遷を指し、身口意の行為を含む。動き静止しない行為は全て行蘊に属する。呼吸・心拍・脈搏・血液の流動・肢体の動転・行来去止・言語思想活動などの造作である。眼が色を見ることは行であり、耳が声を聞くことは行であり、鼻が香りを嗅ぐ・身が触覚を感じる・心が法を思う時は全て行蘊である。涅槃に入る時・正死位では滅する。これも刹那刹那に生滅変化して止まず、無常的・虚妄的・苦的・不実的である。故に私ではない。
識蘊は六識を含む:眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識。主に分別了別の作用を果たす。眼識は色塵の外観、粗い部分を了別し、意識は同時に細相を了別する。耳識は声塵を了別し、大まか・粗略な部分を分別し、意識は同時に細かな分別を行う。鼻識は香りを嗅ぎ、粗相を了別し、意識は細相を了別する。舌識は味を嘗め、粗相を了別し、意識は細相を了別する。身識は触覚を感じ、粗相を了別し、意識は細相を了別する。識蘊は夢無き睡眠・昏迷・無想定に入る・滅尽定に入る・正死位で滅する。それは生滅変化無常であり、虚妄的・苦的・不実的である。故に私ではない。要するに、五蘊は生滅的・無常的・苦的・無我的である。
十八界は六根・六塵・六識を含む。六根は眼・耳・鼻・舌・身・意根である。眼根は浮塵根と勝義根に分かれる。地水火風の四大元素で構成され、身体の外側にある葡萄のようなものを浮塵根と呼び、外眼根ともいう。後頭部にあり、眼の伝導神経が繋がる視覚を司る大脳後頭葉皮質は勝義根であり、眼識が依る所で、そこで眼識が生起する。勝義根が損壊すれば、眼根が無事でも色を見ることができず、開眼盲と呼ばれる。眼根は受精卵の段階で如来蔵が母体中の地水火風四大元素(栄養)を吸収して造る。それは生滅の法・無常の法・虚妄の法であり、苦である。故に無我的である。
耳根は浮塵根と勝義根に分かれる。身体の外側にあり、新しく巻いた葉のようなものを浮塵根と呼ぶ。伝導神経が大脳後部の聴覚を司る大脳皮質に接続されており、これを勝義根と呼ぶ。耳識が依る所で、そこで耳識が生起する。耳根は胎児期に如来蔵が母体の栄養を吸収して造る。生滅有る法・無常法・虚妄法であり、苦的・無我的である。
鼻根は浮塵根と勝義根に分かれる。浮塵根は身体表面にあり、双嗅球あるいは懸胆のようで、香気の受納器である。香気を嗅いだ後、嗅覚伝導神経が大脳皮質に伝えられ、そこで鼻識が生起して初めて香臭を分別できる。後頭部の大脳皮質は勝義根であり、嗅覚を司り、鼻識が依る所である。鼻根も受精卵の段階で如来蔵が造る。それは生滅的・無常的・虚妄的・苦的であり、私ではない。
舌根は地水風火の四大元素で構成され、受精卵の段階で如来蔵が変生する。浮塵根と勝義根に分かれる。身体の外側にあり、口を開ければ見える半月形のものは浮塵根であり、味覚受納器である。味覚伝導神経が大脳皮質に伝わり、そこで如来蔵が舌識を生起させ、各種の味塵を分別する。後頭部の大脳皮質は勝義根である。舌根は生滅的・虚妄的・無常的であり、苦的、すなわち無我的である。
身根は地水火風の四大種が造り、三十六物が集積する。外相十二物:髪・毛・爪・歯・眵(目やに)・涙・涎(よだれ)・唾・屎・溺(尿)・垢・汗。身器十二:皮・膚・血・肉・筋・脈・骨・髄・肪(あぶら)・膏(あぶら)・脳・膜。内類十二:肝・胆・腸・胃・脾・腎・心・肺・生蔵・熟蔵・赤痰・白痰。各部分の皮膚・筋肉乃至臓腑には感覚があり、伝導神経が脊髄を経て大脳皮質に伝わり、そこで身識が生じて初めて触覚を感じる。大脳皮質は勝義根であり、後頭部にある。この部分が損壊すると、全身が麻痺し植物状態となる。浮塵根は肉の桶のようで、人目に見えるため浮塵根と呼ばれる。身根は生滅性・無常的・虚妄的・苦的である。故に無我的である。
意根は精神体であり、心であって物質ではない。無始劫前から存在し、阿羅漢が涅槃に入るときに滅する。常に煩悩と相応し、全ての心思は「私」と「私のもの」である。恒常・審察・思量の了別作用を有し、常に前六識を自外の我として執着し、常に第八識を自内の我として執着する。これは染汚の末那識である。刹那刹那に思量し主宰し、決定を下す。執着性が強く、六識に依って具体的な塵境を分別する。惑いを起こし業を造る根元である。修行によってのみ、その染汚性を清浄性に改め、自己に対する執着性を断じ尽くして初めて解脱を得られる。これも生滅性・無常的・空的・苦的であり、私ではない。
次に色・声・香・味・触・法の六塵である。色塵は外色塵と内色塵に分かれる。外色塵は地水火風の四大種子和合で構成され、宇宙器世間を含む。須弥山・諸天天宮・七金山・四大海・四大洲などは、共業衆生の如来蔵が共同で和合して造ったもので、衆生の生存環境である。環境があって初めて有縁の衆生はその中に投生し業報を受ける。縁が滅すれば宇宙器世間は次第に毀壊し、衆生は他の有縁の器世間に転生する。故に外色塵は生滅変化無常であり、虚妄法・空的・無我的である。
内色塵は、衆生の如来蔵が眼根を通じて外色塵に接触し、全く同じ影の信号を変生し、網膜・視覚神経を経て大脳皮質に伝導され、外色と全く同じ仮の色を形成したもので、内色塵である。これも影であって真実の物質ではない。真実の色法は眼根と接触できず、網膜神経を通じて後頭部に伝わることもできない。また、眼根が物質の形体と接触すれば必ず損傷する。例えば眼根が刀の先端に接触すれば眼は必ず刺され、眼が火に接触すれば眼は必ず焼かれ、眼が砂に接触すれば砂は必ず目に入る。故に内眼根は物質の形体に触れることなく見るのであり、接触するものは全て形体が放射する四大微粒子、すなわち影である。
この道理はカメラの原理に似ている。外色がカメラを通して機内に倒立像となり、肉眼がそれを見ると正立像に変わり、真実の色塵を見たと錯覚する。実はそれは影や写真であり、テレビに映る色塵と同じである。衆生は無始劫来、外部の真実の色塵を見たことがない。故に衆生が見る内色塵は虚妄的・空的であり、苦的・無我的でもある。
声塵は外声塵と内声塵に分かれる。外声塵は宇宙・山谷・河流など各種物質が発するもので、共業衆生の如来蔵が因縁・業縁に基づき共同で変造する。衆生が発する声塵は衆生個人の如来蔵が変生する。これも地水火風の四大種で構成され、物質的・生滅有る・虚妄的・無常的・空的・苦的であり、無我的である。内声塵は如来蔵が耳根を通じて外声塵に接触し、全く同じ影を顕現させ、耳の伝導神経を経て大脳皮質勝義根に伝わり、根塵が接触すると如来蔵が耳識を生起し声を分別する。実はこの声は自身の如来蔵が顕現したものであり、偽り・虚妄・生滅・無常・苦的であり、無我的である。この原理はテープレコーダーに似ており、我々が聴くレコーダーの音声は外部の真声に似ているだけで、実は映像に過ぎない。
香塵は外香塵と内香塵に分かれる。外香塵は地水火風の四大種で構成され、共業有情の如来蔵が業と縁に依って共同で変造する。衆生自身の身体の香塵は自身の如来蔵が単独で変造する。内香塵は如来蔵が鼻根を通じて外香塵に接触し、類似の影を顕現させ、鼻の神経を経て後頭皮質に伝導され、鼻の勝義根と接触すると、如来蔵が鼻識を生起して分別する。実はただ仮像を分別しているに過ぎない。内外の香塵は共に生滅的・無常的・空的・苦的であり、私のものではない。衆生はこれを知らず、その中で執着を止めない。
味塵は外味塵と内味塵に分かれる。外味塵は物質的であり、地水火風の四大種で構成される。共業有情の如来蔵が業と縁に依って共同で変造する。生滅変異的・無常的・幻化的・苦的である。故に無我的である。内味塵は如来蔵が舌根を通じ、外味塵に接触して類似の影を顕現させ、舌の伝導神経を経て大脳皮質に伝わり、舌の勝義根と接触すると、如来蔵が舌識を生起し分別作用が生じる。分別するものは幻化された仮相に過ぎず、内味塵は虚妄的・無常的・苦的・無我的である。
触塵は内外の触塵に分かれる。外触塵は地水火風の四大種で構成され、共業有情の如来蔵が業と縁に依って共同で変造する。生住異滅があり、無常的・虚妄的・苦的である。故に無我的である。内触塵は如来蔵が身体を通じて外触塵と接触し、類似の影を変生し、伝導神経を経て後頭部に伝わり、身の勝義根と接触すると、如来蔵が身識を生起して了別する。内触塵は生滅的・幻化的・無常的・苦的・無我的である。衆生は無知でこれを真実と錯覚し、執着を止めない。
法塵も外法塵と内法塵に分かれる。外法塵は四大極微で構成され、五塵上に顕現する形色・表色・無表色などの法処所摂色である。共業有情の如来蔵が共同で顕現する。外法塵は更に五塵と共に勝義根に伝導され、如来蔵が内法塵に変え、意根と接触すると、如来蔵が五俱意識を生起して内法塵を分別する。故に内外の法塵は共に虚幻的・生滅的・無常的・苦的であり、無我的である。
そして六識とは識蘊であり、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識である。これらは全て六根が内六塵に触れ、如来蔵が出生したものである。もし意根が六塵に興味を持たなければ、如来蔵は六識を出生せず、見ていながら見えず、聞いていながら聞こえないなどの無心の現象が生じる。無想定・滅尽定に入ると、意識心も現起せず、衆生は全く無知で、一片の分別もなくなる。
以上を総合すると、衆生の五蘊十八界法は全て生滅幻化である。五蘊身は影絵芝居の人形・電動人形・アニメの人物の如く、空に浮かぶ雲が形作る猫や犬の画像の如く、テレビの中の人物の如く、極めて不実である。衆生は無知で、これに迷い執着し、妄りに身口意の業を造り、六道輪廻を出られない。もし輪廻の苦海を超えたいなら、常に以上の内容に従い、五蘊十八界の虚幻を観行思惟すれば、小乗果を証得し、更には大乗の法道に悟入し、真実の如来蔵を証得できる。
我相から見て取れるように、人相と衆生相もまた無常・苦・空・無我的であり、全て幻化である。
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