衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2019年03月07日    木曜日     第1 回の開示 合計1313回の開示

ブラックボックスの世界(四十一)

我々が昏倒させられた時、見聞覚知の性が失われる故に、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも触れることも分別することもできず、一切法を了知することができません。しかしその花は依然として存在し、他人には見えます。外界の風雨の音は依然として響き渡り、他人には聞こえます。外の花の香りは他人に感じられ、外の美食は他人に味わわれ、外の暖かな日光は他人に感知されます。他人は皆自らの内相分を感知することができ、死や入定、睡眠時も同様です。我々が花を見る時、美しい花は我々を魅了しようとする心などなく、我々自身の七つの識がそれを分別し、思惟し、判断し、観賞するが故に、愛憎の心が生じるのです。同様に、天地の万法は我々に喜怒哀楽を生じさせる心などなく、我々の妄心自らが万物に執着を生じるのです。酒に人を酔わせる心などなく、飲者が自らの酒量を超えて自ら酔うに過ぎません。

外界の境界に我々を惑わす心などなく、境界が我々の心中に現れるのは影の如きものです。我々自身の七識の心が動き、分別を起こし、様々な念頭や情動を生じさせるが故に、自らの心を平静でなくし、自ら煩悩を生じさせるのです。これらの識は、第八識がそれらに識種を送らなければ存在できず、識種が送られた後、幾つかの心は躍動し、種々の分別、種々の知見、種々の情緒を生じ、身口意の種々の行為造作を生み出します。あたかも影絵芝居の如く、人が糸を引けば人形が芝居をするようなものです。これらの識心もまた、極めて不実な存在です。ここから、我々の識心がいかに虚妄であり、五蘊がいかに幻の如き不実なものかがわかります。それらはただ第八識心の表面で翻弄されているに過ぎません。故に我々が相を見る時、相は虚妄であり、見ることも虚妄であり、見相という事実など存在せず、病める目が虚空に花を見るようなものです。同胞諸氏に真偽を見極め、迷執を捨て、自性に回帰し、速やかに大解脱を得んことを勧めます!

——生如法師の開示
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