一切の衆生は供養することができます。破戒の僧侶も含まれます。猫や犬、魚や鳥に供養するだけでも百倍の福を得るのに、まして人間を供養する場合においては? 破戒の僧は第一に人間であり、第二に僧侶であり、第三に破戒者です。供養すれば千倍の福を得ます。僧侶たちは鬼神に施食(せじき)さえするのですから、まして在家の者が破戒の僧を供養する場合においては? 僧侶はたとえ破戒であっても、畜生や餓鬼(がき)よりはるかに福徳があります。供養した後に得る福は、畜生や餓鬼を供養して得る福よりもはるかに大きいのです。すべての人が供養に行くことができ、例外はありません。ヒトラー(Hitler)のような極悪人も含まれます。しかし、悪人が悪業をなすための道具や費用を提供するのは、悪人と共に罪を負うことになります。基本的な飲食や衣服を提供する分には問題ありません。
環境の影響力は無視できない
環境の制約性と染まる性質は非常に大きく、人の善業の力、福徳の力、智慧の力は、時として環境の影響に対抗し、そこから脱するのに十分ではないことがあります。無意識のうちに、こっそりと影響され、染まってしまう可能性があり、自分では気づかず、結果として同化されてしまいます。もし善法に同化するのであればまだ良いのですが、悪法に同化してしまえば、自心の染汚(ぜんま)と無明(むみょう)の煩悩を増し、いっそう生死の業障(ごうしょう)に縛られることになります。ですから、人がどのような環境に生きるかは非常に重要なのです。
世俗界の環境は一般的に染まっており、清浄なものは極めて稀です。なぜなら、衆生の煩悩習気(じんねんじっけ)は非常に重く、ほとんど根深く固まっており、常に貪り(とん)・瞋り(じん)・痴(ち)が現れるからです。仏教界の環境は混ざり合っており、染汚もあれば清浄もありますが、染汚の割合が清浄よりもはるかに高く、影響力もより大きいです。多くの人は、自分が置かれている環境が染汚が多いのか清浄が多いのかを識別できず、表面の現象しか見ません。仏教を学び始めた後、煩悩染汚の重い団体に従う人もおり、受ける影響は大きく、学べば学ぶほど煩悩が重くなり、自分ではそれに気づかないこともあります。このような仏道修行は非常に危険です。もし衆生の煩悩が軽く、超然として物事の外にあり、影響を受けず、仏道を学ぶ初心を保てるなら良いのですが、染汚が重く影響力の大きい仏教環境こそが最も警戒すべきものであり、人に容易に覚醒(かくせい)と警戒心を失わせ、知らず知らずのうちにそれに従って染汚の業を造作(ぞうさ)させてしまうのです。
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