実は五戒は身と口のみに関わり、意には関わりません。意がどうであれ、身と口で犯さなければ、戒を犯したことにはなりません。だから五戒は戒心を説かず、身口を戒することだけを説くものであり、小乗戒に属します。身を見張り口を守り、それが守りきれれば、人としての修為もまた良くなり、来世には引き続き人となることができ、また断我見して証果することもできます。しかし大乗法を修めて開悟したいと思うなら、菩薩戒を受け、菩薩戒を守持しなければなりません。五戒をしっかり守れば、徳があり、人格の修養があります。五戒を守持できなければ、人格が全うでなく、修為が十分でなく、人徳が具足しません。もし凡夫としての人格修養すら具足していないなら、人を超えることはできず、断我見して聖賢となることも不可能です。
もし五つの戒を受けようとさえしない、あるいは受戒した後もしっかり守れないなら、まして出家者の何百条もの戒を、どうやって守持するというのでしょうか?多くの在家居士は出家者をどうこう悪く誹謗していますが、では自分自身はどうなのでしょうか?出家者の世俗を捨て、世俗から背を向ける心行、そして何百条もの戒律の束縛を受けられる心行と比べて、一体どれほどの差があるのでしょうか?その差はあまりに大きく、細かく言うことはできません。五戒はわずか五条で、一見簡単で容易に見えますが、実は決して簡単でも容易でもなく、五戒を完全に守れる人はごくわずかです。盗戒と妄語戒は守るのが難しく、大多数の人はその内実と範囲を明確には理解しておらず、違犯する人は少なくありません。
五戒を守るということは、すなわち人として生きるということです。人としてさえまともに生きられないなら、果などと何を語りましょうか。来世は三塗です。多くの人が五戒も受けずに、自分が証果開悟したとほのめかしています。小乗五戒の身口すら守れないなら、どうして大乗菩薩の心意の戒を守れるでしょうか?意を守ることは最も難しいことで、起心動念において悪業を造らないことは非常に難しく、まして瑜伽師地論の中の菩薩戒は、さらにいっそう守るのが難しいのです。もし根本煩悩を断除しないなら、この瑜伽菩薩戒を守ることなど、考えるだけ無駄です。それは煩悩を断除した地上の菩薩が受持守持できるものであり、菩薩は起心動念が善か、慈悲か、智かだけを問い、身口の表面的な行為は問いません。衆生を利益できるなら、なすべきことは必ずなさねばならず、さもなければ菩薩戒を犯すことになります。
衆生が理解できるかどうかについては、衆生の智慧の水準では当然理解できませんから、できるだけ衆生に知らせないようにします。菩薩はすでに大人に成長していますが、衆生はまだ子供であり、智慧は低浅で、見識がないので、大人のことは時に子供に知らせてはならないのです。このような戒は、地前の菩薩でもできません。まして凡夫の衆生になおさらです。しかし、この戒を学び受戒している人も少なくありません。このような菩薩戒体を一体どこから得られるというのでしょうか。無知な人のする事は、すべて戯れにすぎません。
身口は六識の造作であり、意は意根の心行です。意根を管理できれば、身口は必ず犯しません。逆に、たとえ意根の心念が正しくなくても、意識が強引に抑えつけ、清浄を装えば、身口は犯さないようにすることもできます。身口が犯さなければ、五戒は犯しません。意根を管理し意根を調伏することは非常に難しく、意根を薫修して成功させ、煩悩を断除し、自動的に自覚的に清浄となり、束縛を必要としないようにすることは、さらに難しいのです。
煩悩を断らなければ、意業は必ず犯されます。だから煩悩の断除とは、必ず意根の煩悩を断除してこそ、自動的かつ自覚的になり、意識による強引な抑えつけを必要としなくなるのです。もし意識の煩悩だけを断除したなら、それは煩悩を抑圧したとしか言えず、煩悩を断ったことにはなりません。意識がうかつに油断したとき、意根は突然煩悩を現行させ、川の堤防が決壊して氾濫するのです。
13
+1