『菩薩優婆塞五戒威儀経』原文:菩萨如是见如是语。菩萨不应乐于涅槃。应背涅槃。不应畏烦恼。不应灭烦恼。何以故。菩萨三阿僧祇往来生死故。如是语者。犯重垢罪。
解釈:菩薩がもしこのような知見を持ち、このような言葉を言うならば、重垢罪を犯すことになります。すなわち、菩薩は涅槃を楽着すべきではなく、涅槃に背くべきであり、菩薩は煩悩を畏れるべきではなく、煩悩を滅除すべきでもない、ということです。なぜこのように言うのか。菩薩は三大阿僧祇劫の間、生死を往来するものであるからです。このように言う者は、重垢罪を犯します。
なぜこのような知見を持つ菩薩は重垢罪を犯すのでしょうか。菩薩は三大阿僧祇劫の修行を通じて、大乗・小乗の涅槃のいずれも証得しなければならず、最終的には果地の仏の無住処涅槃を証得することになるので、菩薩は涅槃を喜楽し、涅槃に趣向するものであり、涅槃に背くものではないからです。菩薩は涅槃を楽着してはいますが、阿羅漢の無余涅槃には入りません。
菩薩の修行もまた、大乗・小乗の無明を滅除し、種々の煩悩の染汚を取り除き、清浄 (viśuddha/pariśuddha) 心をもって衆生を導いて修行させ、衆生を解脱へと導くものであり、涅槃に背いて煩悩の染汚心を持つべきではありません。染汚心は身心を侵害し、衆生を度することもできず、衆生に正の影響を与えることができません。もし菩薩が涅槃に背けば、生死に沈淪し、自らを救うこともできず、まして衆生を救うことはできません。自らすら解脱していないのに、どうして衆生を解脱させることができましょうか。菩薩の煩悩に対する態度は、菩薩は煩悩を畏れるべきであり、煩悩を滅除すべきであり、煩悩を滅除しつつ、煩悩を滅し尽くしてはならない、というものです。もし煩悩を滅し尽くせば、四果阿羅漢を証得し、命終すれば必ず無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入り、衆生と仏道を捨てることになってしまいます。
菩薩がもし煩悩を断しなければ、自らを救うことができず、どうして衆生を救えましょうか。それゆえ菩薩もまた煩悩を断除し、初果・二果・三果を証得し、煩悩を三果の程度まで断すべきであり、煩悩を断し尽くして四果を証得すべきではありません。菩薩は小乗において三果まで修めればそれで足り、大乗の修行において初地から七地の菩薩の階位に達するのに十分であり、菩薩道の業に影響なく、むしろ衆生を度するのに便利であり、七地菩薩に修めた時に、仏力の加持のもとで煩悩を断し尽くし、八地菩薩を証得して、しかし無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) には入りません。
菩薩は三大阿僧祇劫の間、世間において修行し衆生を度してはいますが、凡夫と同じように生死を往来するのではなく、分段生死 (pariccheda-maraṇa) と変易生死 (parināma-maraṇa) を絶えず滅除し、粗重な生死も微細な生死もすべて断し尽くして、はじめて仏道を成就するのです。
原文:何以故。如菩萨乐于涅槃。畏于烦恼。比于声闻。千万倍不可为喻。何以故。声闻之人顺自为己。菩萨常为一切众故。菩萨虽处有漏。于灭烦恼而得自在。过于罗汉处无漏者上。
解釈:なぜこのように言うのでしょうか。もし菩薩が涅槃を楽着し、煩悩を畏れるとしても、その心行は声聞の人に比べて千万倍以上も勝っているからです。なぜでしょうか。声聞の人は結局、その自私の性に随順して自分のためだけに考慮し、衆生の生死を顧みないのに対し、菩薩は常に一切の衆生のために考慮するからです。菩薩は有漏の煩悩の中にいるとはいえ、煩悩を滅除することについては非常に自在であって、煩悩は滅し尽くせと言えばすぐ滅し尽くすことができます。最後の一糸の煩悩は意図的に保留されているので、菩薩は無漏の位にある阿羅漢を超勝しているのです。
原文:若菩萨起身口业。应自防护。莫使他人慢惰罪。若故不自护。使他惰罪者。犯重垢罪。若不作意自护。放散所作。生他罪者。犯轻垢罪。不犯者。若外道。若随出家。如法所作。若值多嗔恶人。是名不犯。
解釈:菩薩が身口の業を生じさせようとする時は、自らよく防護し、悪行を生じさせず、衆生に譏嫌させ、それによって衆生に軽慢心を生じさせ、不恭敬のゆえに罪を得るようなことがあってはなりません。もし菩薩が故意に自身の身口の防護をせず、衆生に不恭敬の罪業を造作させたならば、菩薩は重垢罪を犯します。菩薩がもし自分の身口の業を注意して防護せず、散漫放逸して、身口を放任し、意のままに行動して、他人に罪悪を生じさせたならば、軽垢罪を犯します。
罪を犯さない場合は、外道に出会って、彼らの外道行と邪法を斥責するような場合、身口に衝突的な行為があっても、これは罪に当たりません。あるいは菩薩が因縁に随って出家し、身口の所行が如理如法であれば、罪には当たりません。あるいは多くの瞋恚の悪人に出会い、これらの悪人を懲治するために身口の行を拘束せず、言動の衝突があっても、罪には当たりません。
こう言うと、もし人が身口意行において常に自らを慎まず、非常に明らかな貪瞋痴の三毒煩悩を示し、しばしば衆生に自分を誹謗軽慢させ、ひいては三宝・仏経・法義や他の菩薩を誹謗させるような人がいたら、そのような人は合格した菩薩なのでしょうか、罪を犯しているのでしょうか。そのような人は合格した菩薩ではなく、重垢罪を犯しています。人が自分の清浄 (viśuddha/pariśuddha) でない身口意行のゆえに、大量の衆生に誹謗させ、さらには謗法させるならば、その罪は大きくないでしょうか。大きいのです。もし人が故意に極めて大きな貪瞋痴の煩悩によって、大量の衆生に謗法させ、法を信じなくさせるならば、それは魔党ではないでしょうか。魔党です。魔党に貪瞋痴があり、衆生に危害を加えることを知りながら、なお擁護し庇う者は、共犯者であり、同様に罪があります。
それゆえ、人が真の菩薩かどうか、善知識かどうかを判断するには、全方位的に考慮しなければならず、その一つだけを見て、他を顧みないことがあってはなりません。その中でも身口意行は最も重要な考慮の対象であり、人の本質を最もよく露わにし、最も問題を物語り、影響が最も大きく、仏教の信譽と威望、さらには仏教の興隆と衰退に関わるものです。それゆえ、学仏する人は一人ひとりが自分の身口意行を清浄 (viśuddha/pariśuddha) にすることを重んじ、決して貪瞋痴の煩悩の悪業を造作してはなりません。
10
+1