『仏蔵経』原文:また舎利弗よ。もし比丘が他の比丘に教えて言うならば、『比丘よ、汝は諸法を分別観察すべし。また法相を念ずること莫れ』と。この比丘がこのように修習すれば、心に係著するものなく、すなわち諸法が一相であることを通達できる。いわゆる無相これなり。この人はなお法相をも生ぜず、ましてや我相・人相をや。
釈:仏は言われた。舎利弗よ、もし比丘が他の比丘に『比丘よ、汝は善く一切の法を分別し観察すべし。一切の法を分別観察するとき、一切法の相貌に落ち込まず、一切法を一切法と定義せず、一切法の相貌・行相を念じてはならない』と教えるならば、この比丘がこのように修習すれば、心は何ものにも係縛されず、一切法がただ一相であること、すなわち無相という相であることを通達できる。この人は一切法に対してもなお法相を生ぜず、ましてや我相・人相を生ずることがあろうか。
なぜ諸法を観察しながら、法相を念じてはならないのか。正しく理にかなって諸法を観察すれば、諸法は諸法にあらず、諸法はことごとく空であり、無相であり、実体なきものであることを知るからである。例えば色法を観察するとき、色法が空であり幻化したものであり、実体なく、真実の色法がないことを知れば、それはすなわち色相なきものである。ゆえに再び色相に執着せず、それを某の色法と定義し、その名相を取ってはならない。声法・香法・味法・触法を観察するときも、同様に観察すべきである。正しく理にかなった観察によって、これらの法は本来、声法・香法・味法・触法にあらず、ことごとく空であり幻化したものであり、実体的性質のないものであることを知る。それゆえ再び声・香・味・触法の法相に執着せず、これらの法の法相を念じてはならない。
このように絶えず修習した後、心は法に執着せず、法相に執着しない。心中に法がなければ空となり、法に係縛されず、道諦を得る。すなわち一切法がことごとく空であり無相であることを通達する。この人はこの後、心中に法相すら存在せず、どうして我相・人相があろうか。我と人は諸法の一種であるから、法が無ければ、我・人はなおさら生起する由もない。
原文:舎利弗よ、汝はどう思うか。法相を念ずる者は、この人が一切の法を滅することができるか。いいえ、世尊よ。舎利弗よ、根がない木が、枝葉・華・果実を持つことができようか。いいえ、世尊よ。
かくのごとし。舎利弗よ、もし人が諸法の根本を得なければ、この人が諸法の相を生ずることができようか。いいえ、世尊よ。舎利弗よ、もし人が諸法の根本を得ず、法相を念ぜずとも、この人が一切の法を滅することができようか。いいえ、世尊よ。
釈:仏は言われた。舎利弗よ、汝はどう考えるか。法相を念じている者が、一切の法相を滅除できるか。舎利弗は言った。できません、世尊よ。仏は言われた。舎利弗よ、例えば、木に根がなければ、枝葉・花果を生じることができようか。舎利弗は言った。できません、世尊よ。
仏は言われた。ゆえに言うのだ、舎利弗よ。もし人が諸法の根と実体を見出せなければ、この人の心中に諸法の法相が生じることができようか。舎利弗は言った。できません、世尊よ。仏は言われた。もし人が諸法の根と実体を得ず、諸法相を念じなければ、この人が一切の法を滅することができようか。舎利弗は言った。できません、世尊よ。
この段は諸法が不生不滅である原理を説明している。なぜ諸法は生じないか。諸法に根がなく、実体がなく、空であり幻化したものであり、不可得であるからだ。なぜ諸法は不滅なのか。諸法は空であり、本来存在しないからだ。真実の存在性がない以上、どうして滅することができようか。誰が空を滅することができようか。諸法が空であるならば、誰が諸法を幻化したのか。諸法の源である如来蔵が諸法を幻化したのであり、諸法は幻化されたがゆえに空であり、不可得であり、不生不滅なのである。生は仮相であり、滅もまた仮相である。仮相にどこに生滅があろうか。この文章は聞くと非常に複雑で難解に思えるが、見道した後には頓悟して明らかとなる。
原文:この人は法を得ず。法相を得ず。滅を得ず。また無生無滅を分別せず。この人はその時、不生不滅なり。涅槃を得た者とは名づけず。また涅槃無得とも名づけず。舎利弗よ、このように教える者を善知識と名づく。第一義の中には、善知識無く、悪知識無し。
釈:仏は言われた。この人は心中に法なく、法相もなく、法や法相を滅することもなく、諸法の無生と無滅を分別しない。この人はこの時、心は不生不滅の中にある。このようであるが、この人が涅槃を得たとも言えず、また涅槃を得ていないとも言えない。舎利弗よ、このように教える者は善知識である。第一義の中には、本来、善知識はなく、悪知識もない。
諸法が空相・仮相であることを識得した人は、心中に法がなく、当然法の相貌も存在しない。法の有無を分別執着せず、心が法の生滅相に執着せず、寂滅すれば、すなわち涅槃を証得する。法が空であるゆえに、涅槃法や法相もなく、それゆえ涅槃とも名づけず、非涅槃とも名づけない。同じ道理で、第一義の中には法がなく、善知識も悪知識もなく、善悪知識の相貌もなく、ことごとく空である。
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