衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年07月30日    水曜日     第1開示 合計4438開示

メイメイの初禅と我見を断った体験

メイメイ:24年5月に未到地定を発起した後も修行を継続し、6月に倒錯した想念が生じ、初禅の境地や悟りの境地を空想し始めた結果、定力が退失した。定力を失った後、悔恨と後悔の念に駆られ、負の循環が形成され、坐禅に安心して臨めなくなった。

7月になり、法華経を写経する過程で四種類の懺悔を発した。1. 経典に見える仏菩薩の境地を自分のものと見做すことを止める。2. 答えを抱えながら質問することを止める。3. 明心見性や般若を理解したふりをすることを止める。4. 永く我慢を除かんことを願う。懺悔と発願の後、その夜の坐禅で善い境界が現れ、吉祥の夢を見て、身心の状態が好転した。修行の成果に対する過度な期待(求め)もなくなった。

10月、再び六祖を礼拝しに行った。礼拝時には以前より誠実さが増し、心の中の小さな打算は消え失せ、神秘的な体験への憧れもなくなり、智慧への渇望が高まった。その際、壇経の一節「もし教えに依って奉行しなければ、何ぞ遠くより勤しんできたる」が心中に浮かび、大いに惶恐として、これまで起心动念を過度に放任していたことを悟った。

ある日、寺院近くで一本の木の前に立った時、突然「全てを自分の命のように思うことで初めて慈悲を最大化できるのだろう。願わくは私が究竟平等でありますように」という想いが湧いた。数日後、寺院で夕課に参加中、身体に震動が走り、帰宅後は強い睡魔に襲われ約24時間眠り続けた。目覚めると、後天的に形成された多くの観念が消え去っているのを感じた。街を歩き物を見る時、それらが全て形・匂い・色・用途などに基づいて自分が付けた名前に過ぎないと気付き、その瞬間、これまで分別していたのは自分の五蘊であったと理解した。

評:メイメイの叙述全体は簡潔明瞭で、「私」という字を用いず、客観的かつ平淡であり、他人の事を語るように、自己の感情や我慢・誇示の気配が微塵も見られない。自身の修行状況を紹介するよう求められなければ、修行の成果を公にすることもなかったであろう。自己顕示の心がなく、非常に控えめである。

なぜこれほど控えめで、むしろ無名を選ぶのか。それは真実の修証を経た無我の品德であり、禅定が煩悩を断じた功徳によるものである。もちろん、前世で名利に淡白であった彼の人格が今世の良好な修行基盤を築いたことにも起因する。彼は修証なき偽りの悟りを装う者と極めて鮮明な対照を成しており、これが徳行である。このような徳行と修為によって、諸仏菩薩や護法神の加護を感得し、各段階で啓発と示現を得て、密かに身心の転変を成就する力を得た。それ故に紆余曲折や邪路に陥ることなく、業障と煩悩を除き、清浄な願力を次第に起こし、我見を薄れさせることができたのである。

メイメイ:12月、阿弥陀仏の聖誕日に念仏を唱え、約三時間経った頃に力尽き「全ての生命が苦を離れ楽を得て、永遠の安楽を得んことを。正法が恒久に盛んにして不和なきことを」と願った。すると力が回復し、再び念仏を唱えると息が途切れることなく続いた。不審に思い数分間息を止めてみたが、苦しい感覚はなかった。その後さらに十数時間念仏を続けたが、息継ぎも疲労感もなかった。その後しばらく、体内を何かが流れる感覚があり、まるで身体の中に空ろな殻がもう一つあるようだった。

25年4月、複数の同行善友と徒歩でラサへ向かい、20日余り後に車で直接ラサ入りした。ジョカン寺に着き、生活や金儲けよりも修行を重んじる現地の人々に深く感化され、「この地で修行を続けるのも良いだろう」という心念が湧いた。すると坐禅中に震動感が再び現れ全身に広がり、全身の覚知が一体となると共に愉悦の感覚を伴った。続いて頭蓋骨を両側へ引き裂くような力が働き、恐怖を感じて坐禅を退出した。

その後しばらくは、歩く・座る・横たわる時も周囲が共に震動しているように感じられ、常に理由なき身心の快楽があった。ある日ジョカン寺の門前で坐禅中に疑問が浮かんだ:「これほど努力して修行しているのに成就しないのは、目的意識があるからか?」この想いが生じると、心の中の一つの目的性が消え、ただそこに坐っているだけになった。すると「メイメイよ、お前は心中の仏に対する主観的認識、人・物・事に対する主観的認識を放下せよ。心・仏・衆生に三つの差別なし」という声が聞こえたかのようだった。続いて思考・感覚・身体から剥離する感覚が生じ、「五蘊は我にあらず、我に異ならず、互いに在らず」の意味が一瞬で理解できた。

坐禅から起きた後、以前あった「自我」という実存感が消失し、「私」という存在を見出せなくなった。周囲の環境を見ると、全く異なる感覚だった。以前はこれらに対する強い参与感があったが、今は絵画を見ているようで、そこに関与する目的性も評価もない。この剥離感が現れてからは、全身震動による快楽よりもはるかに楽になり、一瞬で「観ずるに受は苦なり」の意味を理解した。あの楽受は本質的に緊張(煩悩)であり、この無受の感覚とは比べものにならなかった。

帰宅後、禅定の境界は幾分退失したが、身体や思考・心念が自分ではないという認識は依然として極めて明白であった。以前「仏法は一種の宗教」と思っていた観念が変わり、今や仏の説くところが生命の真実であることを充分に認識した。盲目的な偶像崇拝から真理の検証へと転じ、現在では仏法修証への信心が一層強くなった。

評:自身が初禅の境地を修得した経緯についてのこの叙述は過度に簡略化され詳細を欠く。原因として、1.叙述を好まない性格、2.禅定中は事柄を描写することが困難、3.自己表現や顕示を好まない控えめな性格、4.これらの境界は普通の現象であり特別とは感じていないことなどが考えられる。いずれにせよ、彼の禅定境界は初禅の条件に合致している。また彼の修行過程と結果から見て、我見を断ったことが示されており、禅定中の観行の智慧は自然に現れたものである。

まず、覚知できる自己が五蘊中の色蘊・受蘊・想蘊から剥離する感覚、これが「五蘊は我にあらず」の意味である。そして各蘊が「我に異ならず、互いに融和し合わない」ことを感得した。これが我見を断つ見地である。その後、初禅定特有の喜悦の中ですべての受が苦であり、五蘊が苦かつ無我であることを感得した。ここに仏法修証の第一歩が完成し、以降の修行の第二歩・第三歩へと進むのである。メイメイの修行過程から見れば、修行は難しくもあるが難しくもない。肝要は発心と願力を持ち、心に衆生を置き、衆生の苦を救おうとする意志を持つことであり、それによって初めて身心の変容を成就できるのである。

——生如法師の開示
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