衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年05月06日    火曜日     第1開示 合計4381開示

有心造業と無心造業、どちらの業が大きいか?

有心とは、準備があり目標があり目的があることであり、意図的であるということです。無心とは、準備がなく目標がなく目的がないことであり、無意図的であるということです。有心で業を造るとき、心は空ではなく、善業を造るときは業が小さく福も小さくなります。無心で善を行うとき、心は空であり、業は大きく福も大きくなります。有心で悪業を造るとき、心は悪であり、業は大きく罪も大きくなります。無心で悪業を造るとき、悪心はなく、業は小さく罪も小さくなります。有心か無心かは、目的と心行から理解し観察しなければならず、目的があるかないか、どのような目的があるのかも鍵となります。衆生が善を行うとき有心で目的があれば、善は小さくなり、目的なく善を行えば、善は大きくなります。無心で悪を行えば、悪は小さくなり、有心で故意に悪を行えば、悪は大きくなります。

心の底から業を造るというのは、意根が善悪の業を造ろうと考えていることであり、善業も悪業も大きくなります。なぜなら、作主である根本心が善悪の性質を持っているからです。衆生が無心で善を行うというのは、もともと善を行う考えがなく、心は善ではないのに機縁の巡り合わせでたまたま善を行ったことであり、その福は小さくなります。これは仏の無心とは同じ道理ではなく、同じ次元でもありません。善を行うとき果報を考えないことも無心に属し、その福は大きくなります。善法の力が大きいため、悪業の因縁の成熟を一時的に阻止することができ、大きな悪業は永遠に成熟させないようにします。これが大願の力です。この力がなければ、命終のとき必ず悪業の勢いに従って逝き、大多数の人はそうなります。如来蔵はいついかなる時も、いかなる人や事に対しても無心であり、福もなく罪もなく、その福と徳は最も大きいものです。仏はすべてのことをなすのに無心であり、その福は際限なく大きいのです。


——生如法師の開示
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