有心とは、準備も目標も目的もあることであり、意図的である。無心とは、準備も目標も目的もないことであり、無意図的である。有心で業を造る時、心は空(くう)でなく、善業を造れば業は小さく福も小さい。無心で善を行う時、心は空であり、業は大きく福も大きい。有心で悪業を造る時、心は悪であり、業は大きく罪も大きい。無心で悪業を造る時、悪心がなく、業は小さく罪も小さい。有心と無心は、目的と心の行いから理解し観察すべきであり、目的の有無、どのような目的かも重要である。衆生が善を行うのに心や目的があれば、善は小さく、目的なく善を行えば善は大きい。無心で悪を行えば悪は小さく、有心で故意に悪を行えば悪は大きい。
心の内から発する業の形成は、意根(いこん)が善悪の業を造ろうとすることで、善業も悪業も大きい。なぜなら、主導する根本の心が善悪の性質を持つからである。衆生が無心で善を行うとは、本来善を行う考えがなく、心は善でないが縁に触れて偶然善を行ったことで、その福は小さい。これは仏の無心と同じ道理ではなく、同じ次元のものでもない。善を行うのに果報を考慮しないことも無心に属し、その福は大きい。善法の力が大きいため、一時的に悪業の因縁が熟するのを阻止でき、大きな悪業を永遠に熟させない。これが大願の力である。この力がなければ、命終には必ず悪業の勢力に随って去り、大多数の者は皆そうである。如来蔵(にょらいぞう)は常に全ての人や事に対して無心であり、福もなく罪もないが、その福と徳は最も大きい。仏が全ての事を行うのは無心であり、その福は際限なく大きい。
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