衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2025年05月07日    水曜日     第1 回の開示 合計4382回の開示

意識の見覚と意根の見覚には大きな差異があります

弟子の唯識における念仏体験:夜、一時間ほど念仏を唱えるつもりでしたが、結局三時間近く続けても止めるに忍びず、最後は他の修行課題が残っていることを思い出してやむなく中断しました。その際の感覚を報告します。

1. ゆっくり念仏するほど心が集中しやすい

2. 初めは無量の衆生と共に念仏する様を想像し、時に共に唱え、時に自ら先導しました。やがて他者の念仏声が聞こえなくなり、自らの声がくっきりと聞こえるようになりました

3. 家中の物音は聞こえるものの気にかからず、普段なら煩わしい雑念も今回は弱々しく、生じるやいなや消え去りました。ただ念仏の声だけが止め難く、心中に歓喜が湧きました

4. 最後の段階では、一字一字に力が宿るのを感じ、一文字唱えるごとに耳に幾重もの反響が響き、その余韻が消えるのを待って次を唱えることで、各文字が実在感をもって感じられました

評:これは念仏が糸を引くように続く状態で、禅定の趣きがあり法喜と呼ばれます。喜覚支が現れたのは仏力加護の現れです。心が安定すると四大の調和がとれ、磁場も整い、快適さから自然に喜びが生じ、その境地から離れ難くなります。一見貪欲のようですが、仏法への執着は修行を促進し、三昧を早めます

定力ある時は意根が主導し念仏の一字一句に実在感を覚えますが、定力なき時は意識が主で平淡に感じます。意根と意識の知覚は本質的に異なり、普段は意識優位で無明煩悩が減じません。意根が活性化すると日常とは全く異なる知覚が生じ、見道時は必ず意根による悟りが主体となり意識は従います

定力なき時は雨音や時計の音も平凡に感じますが、定力が強まるとそれらの音が心に響き渡り、呼吸や鼓動さえも大きく感じられます。さらに観察を続ければ外界の変化と共に心境も転じ、遂には見道に至ります。同一の現象でも定力の有無で知覚が大きく異なるのは、意根と意識の智慧の現れ方によるものです

念仏が深まる時はその勢いで継続し、形式的な修行に走らずに本質を見極めるべきです。目標を明確にし、最も重要な修行に専念しましょう

弟子如春の話:楞厳呪を高速で唱えると自我を忘れた状態になり、口元だけがぱくぱく動いているように感じます。目で文字を追う必要もなく、意識が完全に文字を認識する前に口が自然に次の行へ移ります。この状態も興味深いものです

高速念仏も一つの定であり、雑念が入る隙を与えませんが気を消耗するため持続困難です。これは呪文が身体に染み込み、意根が自動再生する状態です。経文を暗唱できるようになったら、言語や音声を介さず意根で流すように修行し、深い禅定に入るべきです

総じて修行体験から分かる通り、意識による悟りや証果などというものは虚妄であり、禅定も修行もない者がでっち上げた戯言に過ぎません。真の智慧ある者にはその虚構が明らかでしょう

——生如法師の開示
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