多くの人々は般若空の基礎を欠いているにもかかわらず、唯識を語ることに熱中し、学べば学ぶほど「有」に執着し、学べば学ぶほど空しさから遠ざかり、道に背いてしまう。本来、唯識は全ての法が空であることを指し示すものだが、多くの人々が研究するにつれ、実在する有法へと変質し、一つの学問となってしまった。これが唯識学の不運である。この状況を転換し、基礎部分を補完するため、今から我々は般若の教えの修学に立ち戻り、重点的に取り組む必要がある。般若の教えは上下を繋ぐ役割を果たし、小乗の我見を断つ助けとなるだけでなく、唯識の修学にも資する。般若学の基礎がなければ、唯識を学ぶことは戯論に堕す。世尊が説かれた般若経は六百巻にも及び、毎日一部分を読み続けることで、般若の教えへの理解が深まり、心は次第に空しさを増し、世間の相に執着せず、身心が転換していく。
経典を読んで仏意を理解し、大いなる利益を得るには、一定の方法が必要である。まず菩提心を発し、この菩提心を修学の全過程に貫徹させなければならない。この基盤の上に、菩薩の六波羅蜜を実践し、専心して道を修めるべきである。経典を読む方法は主に三種類ある:第一に、意識が口先だけで読み、意根が妄念にふけり心が離れている状態。第二に、妄念が減り、意識が経典に専念し、意根が少々の妄想を挟みつつ、経文に注意を向け、一定の余地を残して経意を思惟理解する状態。第三に、経文に熟達した時、意識が読経せず、あるいは声に出さずにゆっくり読み、意根の思考参究と協調し、意根が経文に専注し、絶えず経文を思惟する状態。
第一の方法は最も初歩的な読み方で、純粋に読誦するだけで経文の理解を必要としない。第二、第三の段階に移行して初めて、経典を読む効果が現れ、経文に対する一定の思考が生じ、正しく経意を理解し、経文の真髄を把握することで、自らの修行を効果的に導くことができる。
第二の読経方法を実践するにはどうすればよいか。経典を読む際は心を専一にし、雑念を交えず、意根の広範な攀縁を禁じ、意根を経文だけに結びつけるべきである。読経時はゆっくりと読み、思惟理解の余地を残し、意根が思考する時間を与える。重要な部分や疑問点に達したら一旦停止し、意根が静かに思量し消化する機会を設ける。これは読経の質を重視するもので、速度を求める任務的な読み方ではない。
この段階がほぼ達成されたら、第三の読経方法へ移行する。大部分の思考作業を意根に委ね、意識は意根を各経文の部分へ導く役割のみを担う。意根が各段落の鍵となる部分を一点に凝縮し、心中に懸けて独自に思考参究させる。非常にゆっくりと読誦し妄念がない時のみ、意根は読誦の影響を受けず、法義を心中に懸けて自ずから思考できる。
これは慧を修める過程であると同時に、定を修める過程でもある。定慧を同時に修め、法理が心に入れば、心は次第に空しさを増し、ついには身心が転換する。経典を読むことを会得した者は、座するや老僧の入定の如く、目は経文にあれども注意力は意根の黙々たる思考にあり、非常に専注するため禅定が生じ、身心が爽快に開け、心開き意解け、慧思が泉の如く湧き出で、智慧が朗々たる日光の如く心田を照らし、極めて潤いを与える。何事も心の用い方にある。正しい発心が必要なだけでなく、専精と理に適った方法が求められる。そうすれば結果は事半功倍にとどまらず、それを超越する可能性さえある。
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