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日常開示

2024年05月05日    日曜日     第1 回の開示 合計4169回の開示

意根とは現識の意味である

現識とは現量識の意味であり、現量の見法、現量の識別法、あるいは現量の呈現法を指します。意根も如来蔵のように鏡が像を映す機能を有し、鏡のように法像を顯現する作用を持ちますが、如来蔵が映す像は自らが生み出したものであるのに対し、意根が映す像は如来蔵が変現した像を呈現するに過ぎず、意根自体は像を変化させることはありません。如来蔵という鏡と像の関係は生と被生の関係であり、能生なるものは不生不滅の法でなければなりませんが、被生なるものは生滅変異する性質を持ちます。これに対して意根と像の関係は生と被生の関係ではなく、共に被生の法です。さらに意根が呈現する像と如来蔵が現す像には本質的な差異があり、如来蔵が現すのは本質境(本質の領域)と呼ばれる如来蔵が最も根源的に創造した法であるのに対し、意根が現す像は帯質境(二次的な質の領域)であり、如来蔵による法の二次的変現であって既に真実性を失っています。

何故意根を現量識と呼ぶのでしょうか。それは意根が法を見る際、現前存在する法をそのまま見るからです。量り推測(比量)や虚妄な認識(非量)による法認知機能を持たず、如来蔵が法を幻化した最初の刹那に意根は即座にこれを認知します。これは帯質境と呼ばれ、本質境に近く比較的真実性の高いものです。意根が帯質境を認知した後、更に詳細に了別しようとする時に初めて六識に法を伝達します。この時六識が見るものは既に変異を経た法であり、本質境や真実境から更に隔たったもので、意根の見る法よりも更に虚妄性を帯びています。ましてや意識が法を見る際には比量や非量が伴うため、その現じる法は更に真実性を失います。

現識の内実に照らせば、如来蔵の法認知は更に現量的なものであり、意根の見るものよりも真実性が高いと言えます。如来蔵は如何なる法を見るに際しても、自らが現前に生じさせ保持している法を、毫も隔てなくそのまま認知します。生じた法をそのまま見、保持する法をそのまま見、生じなければ見ず、保持しなければ見ません。比量や非量による法認知は一切発生しません。如来蔵にとって過去の法も未来の法も存在せず、全ては現在の法です。たとえ無量劫以前の法であっても、それは常に現在の法として現れます。しかし六識にとってはこれは現在の法ではなく、実際六識は決して現在の法を見ることができず、如何なる法を見るにしても既に変異した過去の法を見ているに過ぎません。

——生如法師の開示
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