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日常法話

2024年03月18日    月曜日     第1開示 合計4143開示

中有の身はいかにして生起し、入胎するのか?

問:爆発などの突発的な状況により肉体が粉々になったり、瞬間的に気化して遺体が残らない場合、中有の身は突然現れるのか、それとも徐々に現れるのか?中有の身はどのようにして受精卵を執取し胎内に入るのか?

答:中有の身が生起するたびに、それは前の色身が壊れて使用できなくなり、意根が再び利用できる色身を必要とするためであり、中間に隙間があってはならない。したがって中有の身は迅速に生起する。意根は世間のあらゆる現象に対応するために五蘊の活動を必要としており、これは意根の心が空ではなく、我見と我執があり、法見と法執があるためである。執着があるため、世間を捨てることを望まず、五蘊を捨てることをも望まない。生きている間に未来世の業種を集積し、この種子があるため、人が死んだ後には未来世が存在し、断滅することはない。突発的な大爆発に遭遇し、肉体が粉々に爆散して使用できなくなった場合、業種の支えがあり、意根が再び自らが利用できる肉体を望むと、如来蔵は意根のこの願いに応じ、生前の業種に基づいて臨時の色身を再び現じ出す。これを中有の身と呼び、一時的に意根の要求を満たすのである。

もし実体のある肉体を生起させる場合、長い時間をかけて四大を徐々に集積させる必要があるが、意根は待つことができない。そのため一時的に実体のない四大の色身を現じ出すしかなく、こうして人間の身体とは区別が生じる。実の四大種子の集積ではないため、実の四大種子が集積されてできた肉体のような質礙作用がなく、したがって中有の身には小五通がある。意根が緊急に必要とするため、中有の身は徐々に生起することはできず、急速に生起するのである。

突発事故に遭遇して死亡した場合、心理的な準備がないため、伝説ではこのような死を遂げると再び転生することができず、霊的な存在として空中の幽霊のようにさまよい、実体のある色身に頼ることができず、非常に苦悩するとされる。再び転生するためには、別の亡霊を捕まえ、自分が身代わりとなることで初めて転生できる。そこでその人は自分が死亡した現場で待機し、機会をうかがって同じような突発事故を引き起こし、他人を死亡させて自分が転生するのである。したがって世間では、事故が発生した場所では数年以内に同じような事故が繰り返し発生することがあり、これが「身代わりを捕まえる」という説である。

正常な死亡の場合、中有の身の存在時間は最大で七つの七、すなわち四十九日間である。一般的には三つ目の七日の間に転生する。生きている間に人の善悪が鮮明であればあるほど、結果が確定しやすく、転生も早くなる。善悪の区別が非常に難しい場合は、四十九日を限界として転生する。転生の機縁が現れたとき、中有の身は後世の父母のもとへ駆けつけ、受精卵に随伴して胎内に入る。すると中有の身は直ちに消滅する。意根が存在しないため、中有の身は散じるのである。意根がどこにあれば、そこに色身が存在する。

中有の身において意根はどのようにして受精卵を執取し転生するのか?意根は欲を断ち切っていないため、中有の身で父母との縁に遭遇すると、父母の淫欲に引き寄せられ、それに参与する。業力で男性となるべき者は母親に貪欲を生じ、業力で女性となるべき者は父親に貪欲を生じ、父母の淫行を自分と父母の淫行であると見なす。父母の精子と卵子が受精卵として結合する瞬間、受精卵に随伴して母親の子宮に入る。男性の身体となるべき者は子宮内で母親と向き合い、女性の身体となるべき者は子宮内で母親と背を向ける。こうして胎児の身体が成長した後、女児の胎児は腹部が膨らみ(顕懐)、男児の胎児は腹部が膨らまない(不顕懐)のである。

突発事故に遭遇すると、肉体が粉々になるだけでなく、識心も極度の驚きを受けて魂が飛び散る。散じるのは前六識であり、前六識は肉体に依托がなければ消滅し消失する。残るのは意根のみが肉体の外へ飛び出し、肉体から分離して孤家寡人となる。その後ろには如来蔵が続き、それが意根の全ての財宝であるが、意根はそれを知らない。この時、意根はどうすることもできず、再び色身五蘊を自らが利用できるものとして求め、再び世間法を追求する。しかし背後にある摩尼宝珠(マニ宝珠)には全く気づかない。仏教を学ぶ者は意根を掌握すれば全ての法を掌握するのであり、如来蔵の存在を知らなくても一時的には問題ない。ここからも、意識が果を証し意識が心を明かすということが、いかに幼稚で笑えることかがわかる。瞬時に灰燼に帰する法に希望を託すことが、いかに愚かであるか?智慧ある者がどうして自分の財宝を化城(変化の城)に、空中楼閣に置くことがあろうか?

極楽浄土への往生も中有の身から行われるため、極めて大なる神通力がなければ、誰が中有の身が蓮華に乗って極楽浄土へ飛び去るのを見ることができようか?世間の人が言う往生は、全て推測や憶測であり、現量(直接知覚)によって見たものではない。

中有の身にも性別の差異がある。性別の差異もまた業である。意根はいついかなる段階にあっても、常に業、業種、業力と相応する。男女の業があれば男女の性別が存在する。未来世の性別は固定されたものではなく、業種によって決定される。自らがこの一生で造った業行が男性のものであるか女性のものであるかが、後世の性別を決定する。これらの業行には心行や心性も含まれ、業行は心行や心性と相応し、心性に緊密に従って変化する。したがって、ある人が男性の心性であれば後世には男性の身体を現じ、女性の心性であれば後世には女性の身体を現じる。ただし願力を持つ者は除く。我々の出家戒律では、比丘尼に対する規制が多く重いが、それは女性の習気や習慣を規制し、徐々に女性の習性から離れ、男性の習性に近づけ、女性の身体を転換する準備をするためである。現実生活においても、非常に豪快で度量が大きく、男子の気概や男性の風格を持つ女性がいることに気づく。彼女は前世に男性であったことがあり、後世にも男性に変わる可能性がある。逆もまた同様で、生まれつき女性の習気を持つ男性もいる。彼は前世に女性であったことがあり、後世に再び女性の身体に転生する可能性もある。

性別は福徳によっても決定される。色界天以上には性別の差異がなく、男女の区別がない。これは四禅八定の福徳によって支えられ決定される。禅定の福徳は非常に大きく、衆生を一時的に三悪道から離れさせ、人身から離れさせ、欲界天から離れさせる。色界天の境地は、まさに享受そのものであり、欲界天とは比べものにならない。私が初禅定を修得したときは、毎日神仙のように楽しみ、言葉では表現できないほどの悦びに満ちていた。それは世間人が想像できる楽しみではなく、禅定の悦びは世間の楽しみをはるかに超えている。私が仏教を学ぶ前は、毎日気分が重く、心に大きな石を抱えているようで沈んでいた。十三歳の頃から死という字を考えていたが、初禅定を得てからは地獄から天国に来たかのようであった。

極楽世界にも男女の区別はない。これもまた大いなる福徳によって支えられ決定される。したがって仏教を学び念仏を唱えても、福徳を修めなければ至る所に障害がある。それではどうして極楽浄土に往生し、諸々の上善人と聚うことができようか?


——生如法師の開示
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